制限も枠もなく「自由にしてください」と言われると、案外自分が「そう出来ない(思ったより自由ではない)」ことに氣づくものだ

 

 

 

写真は、先日書道ワークショップに参加の際に書いたものなんですが、
これを書くまでに小さな発見(衝撃?)がありまして。

 

 

お話などあれこれと聞き、そしていよいよ「筆をふるう」時間となり。
大きい広幅用紙も目の前に広げてもらい、
(何枚書いてもOK!ということで、山ほどの広幅用紙が準備してありました)

 

「さあ!」

 

と書くだんになって、
何も浮かばなかったのです。
書きたいものが。

 

 

 

で、仕方なく、
無限大(♾️)を縦につなげたような、
筆のウォーミングアップでよく書くにょろにょろの図を書いたり、
場内にいる人の名前を小さく書いてみたり…
そのあとは、
「うどん」とか「うなぎ」とか(うのつく看板シリーズを)
書いたりしながら、
内心戸惑っていたのでした。

 

 

「何も浮かばないなんて…💦」

 

 

たいして書きたくもない、意味のない字を連ねつつ思ったのは、
これまでやってきた「お習字」というのは、
手本ありき、だったもんなあ。ということ。

 

お手本があって、それを写すのが当たり前。
いかに綺麗に、いかに正確に写すか。

 

自分で何を描きたい、など思ったこともなかったし、
もちろん聞かれたこともなかった。

 

 

書くぞー!
かきまくるぞー!
爆発するぞー!

 

という心に反して、
真っ白な、圧倒的な、完全なる「自由」の前に、
身体はしっかりとフリーズしてしまったのでした。

 

 

 

写真は、やっと心身ともに「溶けてきて」、
6割?くらいのアクセスで書いたもの。

 

(何へのアクセス?と問われますと、
本来の書きたいとか表現したい、楽しいとか…
自分の中にふつふつと湧き上がるものへのアクセス、
という感じでしょうか。

 

さらに言いますと、

 

 

「なんかいい言葉を書かなきゃあ」
「説明できる言葉を書かなきゃ」
「あの人、変なこと書いてるって思われたら恥ずかしい」

 

 

などなど…
うるさい思考がだいぶ静かになった状態、とも)

 

 

 

「6割の字」ですが、
それでも、見ると、書いた瞬間の感覚が
湧き上がってきます。
(今は部屋の壁にでーんと貼ってある。嬉しくて捨てられない)

 

身体の中から湧き上がってきたものが、
腕に、筆につながって、墨と紙の間の摩擦でバチバチと音を立てていたような感覚。
自分の全細胞が歓んでいるような感覚と言いましょうか。

 

 

 

 

今、この文章を書きながら思っていることは、
「自分の本質」との回路は、
やっぱり密に、スムーズに開いていた方がいい、ということです。

 

いつでも、
どんな瞬間でも、常にすぐにアクセスできるように。

 

 

あなたは何がしたいの?
何が欲しいの?
あなたは何者なの?

 

 

と問われたときに、瞬間、すぐに、
その答えが自分の中から溢れ出るように。
(そこの回路が詰まっている人たちもたくさん見てき、手伝いもしてきました)

 

 

それが、
生きる上でとてもスムーズに幸せに生きられる、
ということではないか、
と思います。

 

 

一瞬一瞬の選択は、
自分の「そこ」に添うしか自分にとっての「正しさ」「幸せ」の道はなく、
その選択は、ますます嵐のように、数多く訪れると思うからです。
これから特に。

マスク解禁→世界を表す声と言葉と表情を取り戻す。いや、以前よりずっと豊かに生き生きと。

 

 

 

 

3ヶ月ぶりに訪れたカフェのバイトの女の子の「言葉数」と表情が
とても豊かになっていました。

 

 

3ヶ月前は慣れていなかったのか、硬い表情で、お茶を置いて、

「こちら、紅茶になります」
(それはもはや紅茶であって、「ならない」のよ、

それ以上変身しないのよ(笑)と思いつつ聞いていましたが)

 

という言葉を投げかけて去るだけだったのですが、

今日は(やや噛みつつも)
「もう少し茶葉を蒸らしてからお召し上がりください」
&
目が合うとはにかむ目元、というおまけがついてきた。
かわいい…。

 

で、幸せを感じているところです。

 

 

 

 

 

朝ドラの少し前の回で、言葉にまつわるこんな場面が。

 

広辞苑を見ていた中学生の女の子が、
「こんなにたくさんの言葉、いらんやん」
と。

「中学行ったらな、みんなに合わせて、

 

かわいい。
ヤバい。
キモい。

 

のどれかを言っておけばそれで済むねん」

 

 

 

 

それに対して、
主人公の旦那さん(歌人)が、

「たくさんの言葉は自分の気持ちにぴったりのものを見つけるためにあるんやで」

と。

 

 

 

 

 

言葉の数=世界に目を向けることができる広さと深さ、精密さ、
を表している、とつくづく思います。
言葉はまさに「絵の具」。

 

目に見えるもの、聞こえるもの、感じるもの…
決まったほんの数色で塗り固めてしまうにはもったいないくらいに、
世の中はたくさんの色で溢れている。

 

 

 

 

と、どうしてこういうことを書いているかというと、
「伝える力が伸びる!12歳までに知っておきたい語彙力図鑑」
を読んでいるからなのですが。

 

「かわいい」を他の表現で言い換える。
「やばい」を他の表現で言い換える。

 

今これを読んでる方、いくつくらいの表現に
言い換えることができるでしょう?
(大人でも戸惑うと思うのです)

 

 

 

 

 

こと、「感情」に関して。
今、自分の中で何が起こっているのか、
しっかりと「感じる」ことができ、
なおかつ、それをなるべくピッタリくる言葉で表現できた方がいい。
多くの言葉があった方がいい。

 

自分の中で何が起こっているのか。
自分が何を感じているのかがわからない。
または、のっぺりと一色で塗り固められた、記号化したような言葉でしか感知できない、

というのはなかなかに生きづらい。

 

(色々と弊害が起きます。まあ、人生迷いますよね。

感情は自分の魂の声の出発点であり、人生を指し示すセンサーであり、

一生大切に持ち歩く羅針盤だからです)

 

 

 

子どもの場合は、大人が丁寧に、

「聞いてあげて」
「受け止めて」あげ、

適切な問いを「問いかけて」あげることによって「自分の感情を言葉にする力」
が身につきます。
答えが返ってくるのをゆっくりと待つ。

 

 

 

 

大人の場合は、
今から自分自身で自分の感情を聞いてあげることをやっていけばいい。
(わたしも、そっちのくちです。大人になってから自分で癖づけたクチ)

 

 

専門家の手を借りるのもいい。
わたしも、これまでずいぶん助けてもらいましたし、
他者の「そのプロセス」をお手伝いもしてきました。
(一人でやるより早いし楽なのです)

 

 

 

 

 

 

さて。今日は春分です。

マスクも外れて一週間。
(元々「任意」だったと思うんですが、
けれど「解禁!」という言葉がやっぱりしっくりきます)

 

 

 

わたし達は、再び言葉を取り戻さなくてはならない、と思います。
豊かな表情を取り戻さなくてはならない。
この美しい世界を表現する言葉と、表情と、身体能力を取り戻さなくてはならない。

 

 

 

この3年間が、わたしたちの、そして特に若い人たち、子どもたちの
その身体に=無意識層に、
刻み込んだであろう影響を思うと、この先が予想もできないのですが。

 

 

 

 

 

世界は美しい場所だと。
そして、その世界で存分に自分を知り、自分を愛し、
自分の本質を表現していいのだと。

 

大きな声を存分にあげ、湧くままに踊り、
自分の響きを全身で表現するために、
わたし達は生まれてきたのだと。

 

 

 

そして、一人一人の「それ」こそが世界へのギフトなんだと。

 

 

 

わたしたち大人は、
声を大にして、そう再び彼らに伝えなければならない。
何より「その姿」を生きて見せねばならない。

 

そう思います。

 

 

 

 

 

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