何になりたいか」ではなく「何を味わいたいか?」なんだよ、と夢が書けなかった彼に今なら大声で言える

 

 

 

 

昔、教員をやっていた頃、

「将来の夢」といった作文を書いてもらうことがあったのですよね。

 

で、一人、白紙を持ってきた男の子がいまして。
今でもその時のことをたまに思い出すのです。

 

 

その彼なのですが、
「書いとくか、とりあえず」の子や、
「マジな力作」の子や、いろいろな中で、
本当に困ったような、悲しそうな表情で、

 

「ない。僕は思いつかない…」

 

と。

 

 

 

 

今思えば、「とりあえず書いとくか」などという考えすら浮かばず、
真剣に原稿用紙に向き合い、
そして時間を過ごした結果をそのまんま、
正直に持ってきたのだな、と。

 

その子の表情と、
大柄な背中のいつもより窄まった様子を思い出すたびに、
胸がキュ、と痛むような感覚を覚えるのですが。

 

 

 

さて。
「将来何をしたいか」(いわゆる「進路」)を考えるときに。

 

 

私たちは「外界にもはやある基準」、
世の中にもはやある「概念」「区切り」を通して
そこに「自分」を当てはめようとする癖がある。

 

というか、ずーっと、そのようにして
「自分」を「もはやある型」に当てはめ、
生きていくように「躾けられて」きたように思う。

 

「何になりたいの?」➡︎
「サッカー選手」「お花屋さん」「パティシエ」「公務員」…

 

 

そうではなくて、本当は。
「それ」を通して、
「何を(どんな感覚を)味わうのが好きだからそれをしたいのか」
を見なければならないのだ。

 

「うちの子は、ゲームばっかりして困るんです」
ではなく、
「うちの子は、ゲームの中でいつも『助けて』ばっかりなんです」

 

と、言えるようにならなくてはならないのだ。親は。

(詳しくはこちら。
『子どもを動かす『動詞』ー今日から家庭でできる進路さがし』
私もまだ読んでいないけれどきっと良書)
https://www.maruzenjunkudo.co.jp/products/9784908555831

 

 

 

明治大学の斎藤孝先生も、
「動詞」に注目せよ、と言っている。
そこに、その人の「本質」(特質=ずーっと発揮していられる才能)
が隠されているのだから、と。

 

斎藤先生は「練る」ことが好きだったらしい。
とても好きだったらしい。
子供の頃は、駄菓子屋の水飴を白くなるまで練るのが本当に
好きだったらしい。

 

そして今、その「練る」という本質を、
自身の仕事で存分に発揮しているのだ、と。

 

 

 

ずーっと何かを「磨いていた」子はいないだろうか。
いろんなものを「合体させて」ばかりいた子はいないだろうか
「普段人が開けないところを開けて」ばかりいた子はいないだろうか。
(私のクライアントさんは、これ。「仕組みの本質」を

なんでも見て取れるので、独自のやり方で製作するお仕事に)

 

 

 

私の仕事も、
「コーチ」と一括りには、とてもできない。
その中で「発揮している特質」はそれぞれ千差万別。
(理論肌・分析肌・直感肌・五感肌…)
完全に「その作り出す世界」は一人一人が別物のように思う。

 

 

 

 

 

話戻って。
あの頃、あまりにもざっくりとした、
なんの繊細さもない授業をしていたことに、
本当に、土下座したいような気持ちになるのだけど。

 

 

あの頃、こういう知識があったなら。
こういう視野を少しでも持てていたら。

 

彼も、あんなに肩身の狭い思いをしなくて済んだのに、と思う。
そもそも、ああいう授業自体、しなかった。

 

 

 

 

 

みんな。
大切な人のことを、世間の「区切り」ではない、
曇りのない眼でじーっと見てみてほしい。
そして、何より「自分自身」を見てみて。
深く深く、自分を見てあげて。

 

 

 

あなた自身の「本質」は、
一番あなたに見つけて欲しがっているのだから。

 

 

 

 

 

 

*  *  *  *  *

 

 

《お知らせ》

 

この文章が、ちょっと心に響いた方のために、
場を2つ、しつらえました。

 

どちらもテーマは「本質」。
あなたは、何者?
それを「もうある形」「既存の形」に当てはめて探すのではなく、
「自分の中からででくる感覚」から
探そうよ、という場です。

 

どちらも、気軽に遊び感覚で体験いただける場です。

 

 

❶9月21日開催
【コミュニケーションの体幹を鍛えるワークショップ ・第4回】
ー「四元素でめぐる 自分発見の旅ワークショップ」ー

 

⚫︎少人数で静かに進む、小さな対話と体感のワークショップです
⚫︎「何者かにならなきゃ」から少し離れて、自分の感覚に帰ってみる時間
(詳細・お申し込みはこちらへ)
https://fb.me/e/5i0ACrXld

 

 

 

❷【「自分の才能」で生きる】
― この秋、あなたの才能(本質)に出会うコーチング体験セッション ―

 

⚫︎自分の中に長くあった「問い」を、
言語化してみたい方のためのセッション
⚫︎何かが動き始めるきっかけとなる“場”としてのセッション
⚫︎自分の「響き」を取り戻したいと感じる方のためのセッション

 

10月からスタートします。
また詳しくはお知らせします。

 

 

 

 

私たちに自信のなさや自己肯定感の低さがあるとしたらそれは「民族の傷」という側面もあるかもしれない

 

 

 

 

 

この夏は、いつもよりたくさんの戦争関連の番組を意識して観たように思う。

 

 

その中に、

 

「戦争から戻った父親からの虐待を受けて育った子どもたち」

 

という内容の番組があったのだけど。

 

 

 

 

ほとんど全ての日本人が、何らかの形で、

大きな傷と挫折を心身ともに負った時代が、あの時代だったと思う。

 

 

ずっと信じてきた価値観が、脆くも根底から崩れ去った人。

目の前で、大切な人が死ぬのをただ見ていなければならなかった人。

戦場で、言葉には一生できないであろうものを見、

言葉にはできないであろう行動をしなければならなかった多くの人。

 

 

その「傷」は、

きっと一人ではとても耐えられるものではなく。

 

 

 

「戦争から帰ってきた父親は、狂ったように自分たちに暴力を振るった」

 

 

 

その記憶を、今、

70代、80代を迎えた人たちが

やっと、ポツポツと語り始めている、と。

 

 

そして、さらにその「傷」は連鎖している、というのだ。

(それはそうだろうなあ、と思う)

子から、その子、また次の子へと。世代を超えて。

 

 

 

 

学生の頃、

「自分」というものにふっと興味が湧き、

それで「日本人」ついて、調べたことがあった。

(「菊と刀」なんかも読んだ気がする)

 

そして、

島国であることから形成された民族の特性、などを読んで、

妙に落ち着いたというか。

自分の性格的な「難」(だと当時、捉えていた部分)

に「理由」「ルーツ」「起源」が見つかったような。

腑に落ちた気がしたことを覚えているのだけど。

 

 

 

 

 

さて。

「虐待は連鎖する」。

 

 

 

戦後80年。

子ども達は、もはや「その出発点が何であったか」もわからないまま、

ただ順送りにされてきた、重い鬱屈したエネルギーだけを、

理不尽に受け取り続けている(かもしれない)。

 

 

(ちなみに「虐待は連鎖する」と書いたが、

私がここで問題視しているのは、「目にみえる暴力や暴言」だけではない。

 

「自分を信じられない」

「何か、自己が不安定である」

「自分たちのルーツを大切にできない。誇りを持てない」

「自分たちの文化・心根の土台を軽んじ、継承できない」

 

これら全てが「虐待」と同じであり、

長い目でみた「自殺行為だ」と捉えている)

 

 

 

 

 

今日は、だいぶ重たいことを書いた。

 

 

日本人は他民族に比べて「自己肯定感の低さ」というものがある、

と何かで見たことがあるのだけど、

 

 

 

それが、この

「民族の集合無意識に、刻み込まれた悲しみと挫折と傷」

からも、きているのだとしたら。

 

 

 

さあ。

どうする?

 

 

 

 

大人たちよ、どうする?

 

今この瞬間、人ごとではない。

「あなた自身の」中にある、親から、そのまた親から、

そのまた親から無意識に受け継いだ、深く深く積もった

「恐怖」が。

「挫折」が。

 

「自分を出してはいけないのだ」

「私たちは間違っているのだ」というような…

そんな「悲しみ」と「恥辱」が。

 

 

 

もしも、そんなものが私たちの中にあるとしたら。

そして、今この瞬間、子ども達に「それら」の欠片が伝わっているとしたら。

 

 

 

 

 

 

再度、問いたい。

で、

あなたはこれからどうする?

どう生きる?

 

 

 

 

 

 

 

*   *   *   *   *

 

 

《お知らせ》

 

私たちは、確かに親から、その親から、そのまた親から

「負の遺産」

も、受け継いだかもしれません。

 

けれど、

それ以上に美しいもの、素晴らしいものもたくさん受け取っています。

 

これから、私たちが「自分らしく」

「誇らしく」

「自信を持って」

「自分の自然な在り方(特質・よさ)を存分に発揮して」

軽やかに生きることと、

 

「受け取った素晴らしいもの」=「日本人的感性」

 

とアクセスすること、は

無関係ではないと思っています。

 

 

このワークショップも、

根っこにそういう「構造」を秘めている、と言えます。

 

(中身は、全くもって難しいものではないので

安心していらしてくださいね!)

 

 

*  *  *  *  *

 

 

🔷9月ワークショップのご案内🔷

 

【コミュニケーションの体幹を鍛えるワークショップ ・第4回

「四元素でめぐる 自分発見の旅ワークショップ」】

 

 

 

🔸今回はちょっと面白くて。

9月のワークショップは、“直感”や“感覚”を手がかりに

「自分を探る」ちょっと不思議で新しい体験です。

アセスメントや数値化ではなく、

「水・風・土・火」という“自然のイメージ”を使って、

参加者同士の対話を通して、自分の姿を浮かび上がらせます。

 

 

自然と人と、自分のつながりを感じる時間

私たち日本人は、四季や自然への感受性がとても豊かです。

風、火、水、土……そうしたものへの原体験は、

実は身体や記憶にちゃんと刻まれています。

今回は、そんな「自然のイメージ」から、

自分自身や他の参加者を“感覚的に”見つめていく時間となっています。

 

 

*  *  *  *  *

 

 

【開催概要】

 

⚫︎日時:9月21日(日)14:00〜16:30

⚫︎会場:カクイックス交流センター 絵画製作室(5階)

⚫︎参加費:3500円

⚫︎募集:12名(先着順・残席5)

 

 

*  *  *  *  *

 

 

⚪︎イメージする力

⚪︎ 言語化の力

⚪︎観察する力

⚪︎感じたことを信じて伝える力(エビデンスではなく感性)

⚪︎チャンクアップする力(感覚の統合とラベリング)

⚪︎自分を深く見つめる力

⚪︎対話の力

 

 

…こうした力を楽しみながら自然に発揮できる時間にもなるかと。

「感性で自分を探ってみたい」

「みんなの感性で『自分』はどんなふうに見えているだろう?」

「忙中閑あり。ちょっと自分の時間を楽しみたい」

 

 

そんなことを、面白そう、と思ってくださる方と、

ご一緒できれば嬉しく思います。

(詳細はこちらへ)

https://fb.me/e/5i0ACrXld

 

 

「今が一番若いのだから」という言葉に埋め込まれている前提は?

 

 

この記事は、Facebookでシェアしたエッセイの再掲です。

秋の風が吹きはじめたこの時期。

よろしければ、静かな時間にご一読くださればと🍂

最後には、現在お知らせしているワークショップに関するご案内も添えています。

この文章と響き合うような内容になっていますので、

関心をお持ちの方はどうぞご覧ください。

 

 

*     *     *

 

 

朝夕涼しくなって、頭と心にも空間がやっと生まれてふっと「涼やかな風が吹く」と言いますか…。
自分の中に眠っていた「思いの種」もぽつぽつと拾い上げたくなるような、そんな季節になりました。

 

 

さて。
どこかの動画で「今が一番若いわけですから」という「よく聞く言い回し」を耳にしたのですが。
(なのでここから広がる可能性に目を向けましょう、みたいな)

 

「今が一番若いのだから」
「今日が一番若いのだから」

 

 

というこの言い回しに、
以前からなんでしょうね…ほんの少し、
胸の辺りが微かに詰まるような、微妙な感覚を感じていたのですが。

 

 

で、この微かな違和感は何かなあ、
と考えてみたのです。

 

つまり、この言葉には、
「若さ=正・よいこと」
「年をとる=負・マイナスなこと」

 

という王道の「前提」が入っていはしないかしら?
と思ったのですよね。

 

 

とても前向きなセリフに感じますが、
その奥の奥、土台には、
「年をとる」ということへの不安、怖さ、
そういったものが
やっぱりしっかりと横たわっているのでは、と。

 

なので、決して「そこから自由に」なっている言葉、ではないなあと。

 

 

 

9月になり。
車の上に、桜の葉が一斉に落ちてくる時期を迎えているんですが、
その葉っぱが美しくてですね。

 

あざやかな黄色で、そこにオレンジが混ざっていたり、
少し虫に食われてこっくりとした茶色の縁取りが入っていたりと。

 

 

とにかくどれも綺麗で、
フロントガラスから払い落とす時に、
つい、手に取ってまじまじと見入ってしまうのです。

 

 

 

花のときは花のとき。
青葉のときには青葉のとき。

 

 

全く「質の違う」美しさであって、
わたしにはとても「どれが優れていてどれは劣っている」
というふうには見えないし、
そんなふうに感じることも出来ない。

 

 

 

 

年をとるって、

つまりこういうことではないのかなあ、と。

 

 

「変化」は自然の摂理。
生まれた時から、変化は私たちの身体に
(まあ、この世界のもの全てに、ですが)
組み込まれているもの。

 

赤ちゃんは背が伸び、歩き出し、やがてたどたどしく言葉を話しだす。
…これも全て「変化」です。
(変化は祝福、とも言えるのではないでしょうか)

 

もしも、変化することがなかったら
どんなにか恐ろしくて、
寂しいことだろう、と思います。

 

 

 

なので、今。
毎朝、落ち葉の一枚一枚がそれぞれ美しくて仕方がないように、
自分の変化も、周囲の人たちの変化も、
実はそういうものなんじゃないかと。

 

 

うまく言葉にならないんですが、
そういうふうに感じているところです。
少なくとも、

 

 

「今が一番若いんだから!」

 

 

という言葉よりは、
ずっと「力が抜けて」「深く息がしやすい」感覚を今のところ
感じているところなのです。

 

 

 

 

*  *  *  *  *

 

 

 

上の文章を書いてみて、
暑さを過ぎてふっと方の力が抜けた感じのあるこの季節。

 

「自分の中のふとした感覚」
を拾い上げて、丁寧に見てみる、
味わってみるのに、適した季節だなあと。

 

そんなふうに思ったことでした。

 

こういう「自分の土台」と関わる時間は、
派手ではありませんが、
静かに、でも確実に「違いを生み出す」
大切なところだと思っています。

 

 
下記は、そういう時間の「ご案内」です。
ご興味ある方はぜひ。

 

 

 

 

🍁【コミュニケーションの体幹を鍛えるワークショップ ・第4回
「四元素でめぐる 自分発見の旅ワークショップ」】

 

 

🔸 今回はちょっと面白くて。
9月のワークショップは、“直感”や“感覚”を手がかりに
「自分を探る」ちょっと不思議で新しい体験です。
アセスメントや数値化ではなく、
「水・風・土・火」という“自然のイメージ”を使って、
参加者同士の対話を通して、自分の姿を浮かび上がらせます。

 

🔸 自然と人と、自分のつながりを感じる時間
私たち日本人は、四季や自然への感受性がとても豊かです。
風、火、水、土……そうしたものへの原体験は、
実は身体や記憶にちゃんと刻まれています。
今回は、そんな「自然のイメージ」から、
自分自身や他の参加者を“感覚的に”見つめていく時間となっています。

 

*  *  *  *  *

 

🗓 開催概要
⚫︎日時:9月21日(日)14:00〜16:30
⚫︎会場:カクイックス交流センター 絵画製作室(5階)
⚫︎参加費:3500円
⚫︎募集:12名(先着順・残席5)

 

*  *  *  *  *

 

🌱 イメージする力
🌱 言語化の力
🌱 観察する力
🌱 感じたことを信じて伝える力(エビデンスではなく感性)
🌱 チャンクアップする力(感覚の統合とラベリング)
🌱自分を深く見つめる力
🌱 対話の力

 

…こうした力を楽しみながら自然に発揮できる時間にもなるかと。
「感性で自分を探ってみたい」
「みんなの感性で『自分』はどんなふうに見えているだろう?」
「忙中閑あり。ちょっと自分の時間を楽しみたい」

 

 

そんなことに、
面白そう、と思ってくださる方と、
ご一緒できれば嬉しく思います。
https://fb.me/e/5i0ACrXld
(詳細はこちらへ)

 

子どもは一人で育てるものではない。人間の特性上、そもそもそういうことになっている

 

 

 

 

ニホンザルだかチンパンジーだか、の母親が一人で「ワンオペ育児」ができるのは、

 

「生まれてすぐに、小ザルの両腕が、母親の身体にしがみつける」

 

構造と力を持っているからなのだ、と何かで見た。

 

 

小ザルは、自らの力でぎゅっと母ザルの身体にしがみついて、
振り落とされなることはない。
なので、母親の両手は自由自在。(ここが大事)
子どもを身体にくっつけたまま、
自分も自由に餌を食べたり、どこへでも移動することができる。

 

だから、「ワンオペ子育て」ができるのだ、と。

 

 

 

が、人間はそうではない。
生まれたばかりの赤ん坊は、コロンと転がったまま、
放っておけばすぐ死ぬ。
1年間は一人では何もできない。
(1年過ぎても色々と大変そうですが)

 

 

母親は、常に、自分の両手で子どもを抱き抱えていなければならない。
(抱っこ紐があるやん、というツッコミはここでは
論旨がズレるので置いておく)

 

 

 

 

これは、改めて、よーく考えてみると、
すごいことだと思うのだ。
家の中に、「放っておくとすぐに死んでしまう」
「寝転がっているだけ」の
「最高に大切な」ものがいるのだ。
常にいるのだ。
24時間待ったなし!なのだ。

 

 

この緊張。
このストレス。
これを「死ぬ気で」「全精力使い果たして」産んだ、
その余波も冷めやらぬ身体で、
(帝王切開だったら、切ったお腹が痛いよー!な状態で)
やるのだ。

 

 

 

 

今、身体のことを書いたけれど、
精神的な部分の長期の「負荷」も含めて、
本当に、人間の子育てというものは、

 

「頭を大きく産み、代わりに1年間は寝たきりで、
庇護者がつきっきりで面倒を見る」

 

という出産形態を選んだ段階で、
「チームで行う」ということが「必要不可欠」になったのだ、
と思う。

 

そうやって人類は「二足歩行」と「知」の進化を、得た。
それもこれも、全部
「子育てはチームプレイ」あってのことだ。

 

 

 

 

 

そう考えると…
今、一人で。
または基本夫婦だけで、一生懸命子育てをしていたとしたら、
それは本来の「人間の本質」ではない、
とても「不自然な形」なのだ、と思う。
「何か」と切り離されてしまった不自然な姿。

 

 

 

 

なので何を言いたいかというと。
まずは、カフェで騒いでいる子を見たら
(静かにしてね、は言うけれど)

 

 

その庇護者さんたちに、心の奥底で
限りない愛と敬意を持っていたい、と
まずはとりあえず、思うのだ。

 

 

 

 

「みんなのために」の前にまず「自分のために」が存分に満たされていないといけないよね

 

 

 

 

 

思った経緯は長くなるので省きますが。

 

 

 

「自分のために」が十分に満たされていない人の選ぶ、
「みんなのために」は
なんだか無理があったり、ギリギリな感じだったり、
「〜すべきでしょ!」な感じだったり…

 

見ていて辛く感じる時がある。

 

 

 

 

子どもに「みんなのために」を要求するような場合には、
前提として、
その子の「自分のために」がたっぷりと満たされていること、
そういう環境がこれまでもあったし、
これからも
あり続ける、という「安心感」が必要だよなあ、

 

 

としみじみ思う。

 

 

 

 

そして、
「その環境がなかった」と思う人は、

 

 

 

幾つであっても、
もう、まず、必死こいて「自分のために」を満たすことから
やればいい、と思う。

 

 

 

 

その先に自然な「みんなのために」が、
喜びの中で花開く時がやってくる。

 

 

 

 

 

 

 

「氣枯れ」を払い「祭り」を起こすー人が再び「つながり」を取り戻す場としてのワークショップ

 

 

ちょっと長いこと、投稿が滞ってしまいました。

結構たくさん文章は書いていたのですけれど。

あっという間に9月のワークショップのご案内の時期になりました。

 

*   *   *

 

 

「人と会いたい」「集いたい」と思うのはどんなときだろう?
「疲れているとき」
「なんだか寂しいとき」
「とにかく語りたいとき」
いろんな「とき」があるだろう。

 

どうしてわたしたちは「人と会いたく」「集いたく」なるのだろう?

 

 

 

セミナーやワークショップを作るときに
ずっと前から湧いてくるイメージがあって、
それが「祭り」。

 

かつては村々で行われる「祭り」がその役目を果たしていた、
「人の再生」。

 

 

生きることで「すり減る」わたしたち。

 

仕事。
家族のためのあれこれの時間。
世間や常識。
「普通は…」
「男なら」「女なら」「親なら」「上司なら」「⚪︎歳なら」…

 

たくさんの「⚪︎⚪︎なら」に
振り回され、合わせるうちに、
いったい何が本当の自分なのかわからなくなる。
そんなとき−−

 

 

 

火を囲み。
語らい。
歌い。
踊り。
太鼓を叩き。
思いっきり発散して。

 

 

そうして、仲間との時間を通して元気を回復していく。
それが祭りの役割。

 

しかも実はその奥で、

 

「自分への信頼の回復」
「ご先祖とのつながりの回復」
「自然とのつながりの回復」
「神様とのつながりの回復」

 

そんなことが全部、同時進行で行われていたのだから、
祭りというものは本当に、すごい。

 

 

まさに「けがれ=氣枯れ」を取り払い、
人が「つながり直し」「復活する」場。
それが古来からの「祭り」の姿、なのだ。

 

 

で、
話戻って、ワークショップ。

 

「知識の伝達」はもちろん大切なのだけれど、
今思い返してみると、
この仕事を始めた頃から、どんなお堅い場所での研修であっても
もちろんコーチングのセッションでも、

 

「そこ(知識の伝達)」をゴールにしていたことは、
一度も、ない。

 

 

わたしの中の「何者か」が、
いつものたまうのだ。
「祭りを、せよ」「祭りを起こせ」「人を震わせよ」
「響きを起こせ」
「目の前の人を、(本人だけが知っている)あるべき場に戻せ」

 

と。

 

 

これはもう、それこそ「持って生まれた響き」、
特質、なのだから仕方がない。
違うことをしようとすると身体が動かないのだ。
変えようがない。

 

 

なので、今回も。

「コミュニケーションの体感を鍛えるワークショップ・第4回」
も、そんな「祭り」をイメージしつつ、準備を進めています。

 

楽しみたい、という人はもちろん、
もし、どこか疲れているかもと感じていたら。

 

そんな人にも、ぜひきてほしい、と思っています。
何より「場の力」が、
わたしたちを元氣づけてくれるのではと
思うのです。

 

太古の昔から、人は「場の力」で元氣になってきたわけですし。

 

 

=======

🔷9月21日開催🔷
「コミュニケーションの体幹を鍛えるワークショップ・第4回」

「たまには「直感と思いつき」を頼りにしてみよう」
ー四元素でめぐる「自分発見の旅ー

 

🔸9月21日(日)14時ー16時半
🔸カクイックス交流センター 絵画製作室にて
🔸受講費 3500円

 

申し込みフォーム
https://form.run/@maikaze–LJ1V8NRFJwvcC5hlfdDc

 

 

 

 

「わたしは100%あなたの味方」の意味

 

 

 

 

「コーチは、100%あなたの味方」
という言葉をよく聞いたのですよね。この仕事を始めた頃。
いろんな人が(コーチが)この言葉を使っていた。

 

そして、わたしも類似の言葉を書いたりしていたと思います。

 

 

 

 

 

で、
これはその通りなのですが、
「あなたの味方」の意味、というのは、正確には、

 

 

「真のあなた(あなたの魂)の欲求」
「真のあなたの願い」
「真のあなたの行きたい場所」

 

 

に対して、100%コミットする、応援をする、という意味だよね、

 

と。
3日ほど前、ふと言葉で再確認したところだったのです。
なので、ここには例えば
「同情」

「無意味な同調」
などは入っていない。

 

 

 

 

そして。
「これはこの人の真の響き」ではない、
「それが出ていない」
「この人は何か、違うものに従っている」
と感じた時には「容赦なく」(というのも言い過ぎですが^^)

 

 

それを指摘し、
時には両肩を掴んでガクガクと揺さぶったりもしなければならない。
(喩えですが)

 

 

「起きろ!あなたは何をやっているんだ!あなたはそもそも何者だ?」と。

 

 

 

これは、
考えようによっては、そして人によっては、
中々にきついことであったりすると思うのです。
(そうする、と決めることがですね。
そして、そうあり続けることがですね)

 

 

 

 

自分自身の価値観というものもありますし、
「エゴ」(と呼ばれるもの)もありますし。
それに、
「大変ねー」「わかるわあー」と言っておけば楽、
ということもありますし。
(そもそもよく思われたいですし)

 

 

 

 

そういった意味で、
毎日、瞬間瞬間
「鍛えられるなあ…」
と思うことなのです。

 

 

 

 

きっと、
今日もたくさんの人たちが
(親御さんたち、先生たち、そのほか、
たくさんの「人を導き、人に影響を与える」場所にいる人たちが)

 

そんなみんなが、
瞬間瞬間、そういう場面に直面しているんだろうなあ、
そしてつまりは「自分自身と」対峙しちゃってるんだろうなあ〜

 

 

 

(みんな、今日も頑張ってるねえ。
 お互いリラックスして行こうよね!)

 

 

 

 

という氣持ちと共に、
ふと浮かんだ

 

 

「わたしはあなたの味方…」
「あなたのために…」

 

 

にまつわる雑感を書いてみました。

 

 

 

 

 

 

(写真はベランダのプチトマトの花。
今年は実がなるか…⁉︎)

 

 

 

 

 

 

 

《追記》

この数日ご案内していた6月15日開催予定の下記ワークショップ、

無事満席となりました。

(シェアしてくださった方々、記事を読んでくださった方々、そのほかたくさんの方々、

誠にありがとうございました)

 

 

 

「B級グルメは『作れない』」ーそれは「見出す」もの

 

 

 

「ロバート秋山の町民オーディション」という番組がありますが。

 

 

あの番組の何が一番すごいかというと、ロバート秋山の才能が凄い、と思いつつ、
毎回見ているところなのです。

 

 

素人さんたちの「表現」の
「微妙なアク(山っ気?😃)」をさっさと(ズバッと)指摘し、
ばっさばっさと容赦なく取り除き、

 

そして、その人自身も知らなかった、
「魅力や面白さ(存在感)」をその場でどんどん引き出して、
「自分たちだけでは絶対に到達し得なかった」
場所へと全員を連れていく。

 

面白いなあ〜。
秋山、なんてすごいんだ!
と。

 

 

 

 

で、
この番組を見ていると、
以前クライアントさんがおっしゃっていた、

 

「B級グルメは作れない」

 

という言葉を思い出すのですよね。

 

 

 

 

「B級グルメは『作れない』」。

 

作為的に、ああやってこうやってこの食材が流行ってるから、
これを使って…と、
頭であれこれ考えて作っても、
結局流行らない。定着しない。

 

わかるなあと。
なんだか「あざとく」感じられるのですよね。

そういう感じのもの。

 

 

 

B級グルメ。
それは「つくる」ものではなく、「見出す」もの。

 

つまり
そういうことなのかと。

 

 

 

 

 

そもそも、そこで昔から、自然と食べられていたもの。
自分たちも「気づかない」くらいに、ふつーに、
食卓に上っているモノ。

 

あまりの馴染み具合、手に入りやすさに、
自分たちにとっては「特別感ゼロ」で食べているようなもの。
調理方法。

 

生活、風土、様式と共に「自然と」そこにあったもの。
それが「個性」として光り、
他にはない「面白さ」となって「B級グルメ」となる。

 

 

つまり。
歴史、
時間、
風土…
といった「リアルな生活」に裏打ちされた
「真の存在感」こそが、
「B級グルメ」たる所以である、ということかと。
(何せ、B級なんで。もう完全に「生活密着」でなくてはね!)

 

 

 

 

 

 

話戻って。

 

「ロバート秋山の『町民オーディション』」を見ていると、
なんだか似たような「におい」を感じるのですよね。

 

 

かっこよくも、
おしゃれでもないけれど、
でも、町民一人一人の「ほんとの存在感」満載の、
魅力とエネルギーに満ちた
リアルな息遣いの感じられる「B級グルメ」になっていく感じが
見ていてなんだか元氣が出る。
(不思議とすっきりとしたものを感じ。うまく言語化できていませんが)

 

 

 

 

さて、今日何をいいたいかといいますと。

 

 

あなたの魅力はあなたの中に。
あなたが過ごしてきた時間と、生活のプロセスの中に。

 

いらん事をしなくても、
飾り立てなくても、
面白い事をしよう、としゃかりきに頑張らなくても、
「外から」何かを取り入れなくとも。

 

 

元々のあなたの中に。

 

 

 

という感じでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

(※写真は「B級グルメ」で出てきた「富士宮焼きそば」)

 

*   *   *   

「『富士宮やきそば』は

戦後の静岡県富士宮市の市街地の数あるお好み焼き屋から誕生しました。

 

戦後の経済復興の中で富士宮市街地には製糸工場が操業し、

数多くの女性の工員達が働いていました。
そんな工員達の日常の食事場所として値段も手頃な

お好み焼き屋が利用されていました。

お好み焼き屋ではお好み焼きはもちろん焼きそばが食されていました。

 

富士宮では駄菓子屋でも鉄板が置いてあり、子供達が小遣いを握り締めて

お好み焼きや焼きそばをおやつ代わりに食べていました。

 

戦後は富士宮の住民だけでなく山梨からも

富士宮に電車で働きに来たり買い物に訪れていました。
そんな中で焼きそばの麺を持ち帰りたいとの要望があり、

現在のような水分をとばした長持ちする焼きそば麺が作られたと考えられています。」

[日本の郷土料理観光事典]よりお借りしました
https://kyoudo.kankoujp.com/fujinomiya-yakisoba/

 

 

 

 

 

*  *  *  *  *

 

【お知らせ】

 

「声」は自分の「ほんとの魅力」を見つける鍵にも。
(「自分の本当の声」がしっかり出ている人は、自分軸もしっかりです)

 

◉コミュニケーションの体幹を磨くワークショップ
第2回「”伝わる力”の根っこにあるものはー声をめぐる冒険」

 

⚫︎日時  6月15日(日)14時〜17時
⚫︎ところ 鹿児島市 カクイックス交流センター
⚫︎受講費 3500円

 

 

【詳細】
https://commu-w.net/2025/05/28/

【申し込みフォーム】
https://form.run/@maikaze–E7aT08ji9a56ogH0pEpf

「声」の語源は「越ゆ」であるという説(ワークショプのご案内と共に)

 

 

 

「コミュニケーションの体幹を鍛えるワークショプー『聞くこと(傾聴)の前にあるものは』」

第一回、無事に終わりまして、

(と一応のご報告)

 

 

 

上のご案内は、「第2回」のご案内です。

第2回のテーマは「声」。

「”伝わる力”の根っこにあるものは−声をめぐる冒険」

と題して、あれこれ楽しもうかなと。

(詳細は上の写真を大きくしてご覧ください)

 

 

で、これを作りながらふと思い出したのは、

 

「声は『越ゆ』」

 

と言った安田登氏の言葉なのですよね。
(能楽師・日本の伝統的身体技術を通して、
コミュニケーション力や生活の力を鍛える著書、多数)

 

 

声は自分を「どこか、越えたところ」へ連れていく。

 

 

「声の可動域を広げる」
とわたしは、よく表現するんですが。

 

「自分の声は、こう」
「自分は大きな声は出せない」
「自分の声はこんなもん」

 

「出て当たり前」なものであり、
生まれてからずーっと、同じ声を出して
「その状態」でいるので、
自分の声について、疑う人はほぼ、いない。

 

そして「(全く違う、さらなる)大きな世界」がある、ということも
想像がつかない。

 

 

 

けれど、
「声の可動域」が広がった人は、
人生が変わる、ような氣が実はするのです。

 

(豪語してしまったな、と少し緊張しつつ。
けれど、少なくともわたしはそうだったなと。

 

そして受講生さんにも、
人生、とまではいかないかもですが
「上司に言えなかったことが言えるようになりました」
などなど、様々な「変化」の訪れた人が結構いたように思います)

 

 

声は、身体を共鳴版として出すものなので、
「声が変わる=身体が変わる=心の状態が変わる」
と、そういうことになるんだろう、
と思います。

 

 

昔、自分の声が変わった時。

自分の身体がぐん、と振動して、目の前の「グレーの壁」がバリバリと崩れ、
美しい極彩色の世界が実は目の前に広がっていたことに氣がづいた。

 

あの時の感覚と、感動は、今も身体に刻まれているなあと。

 

 

上記のワークショプ。
もちろん、「伝える」「伝わる」ための
いろんなスキルをやる予定ですが、
その根っこには、

 

「声は、越ゆ」

 

をしっかりとわたし自身の身体に抱きつつ、

そういう時間にできたら、と思っています。
(今回は3時間ですので、
どこまで行けるかなー、と思いつつ)

 

 

 

お知らせ(告知)でした。

 

 

お申し込みフォームはこちら

https://form.run/@maikaze–E7aT08ji9a56ogH0pEpf

大人は忘れていても、それが子どもの人生を助け動かすことがある~小椋佳氏とマルコ・ポーロ

 

 

 

 

 

先日、知人からメッセージが来てですね。

 

 

娘さんのお友達の話を聞いていたら、

 

「バイト先の常連さんにとってもステキな女性がいて、
凛とした雰囲気が漂い所作や動きがとってもきれいで
私達との応対もハキハキとステキで仕事もできそう!
こんな大人の女性になりたいなって憧れる雰囲気の人がいる」

 

で、
どうも公子さんっぽいので、写真を見せたら大当たり。
と。

 

 

なんだか自慢みたいになっていますが、
そのメッセージを見たときのわたしの心持ちはそんなものではなく。
言葉にするならば、
「ああ!😭」と膝からくず折れるような、
そんなきもち。

 

「ああ、頑張ってきてよかった。
痩せ我慢しつつ、時には強がりつつ…でも本当に頑張ってきてよかった」

 

と、そういう感じでしょうか。
(と、その知人にも送ったのですけどね)

 

 

 

さて、本題。

 

 

今、朝5時と言う思いっきり早い時間に、昔やっていたアニメ
「マルコ・ポーロの冒険」
の再放送をやっていますが。

 

子どもの頃、一生懸命見ていたんです。
そして、出てくるいろんな曲が好きだった。

 

でその頃、曲を作った小椋佳さんが、
「マルコポーロの冒険」の楽曲について語るラジオ番組があったのです。
それを録音して、姉と二人で繰り返し繰り返し、聞いた。
でもって、すっかり覚えてしまった。

 

 

一番印象に残っているのは、

 

「取材に行ったとき、砂漠の真ん中で、自動車が壊れてしまった。
立ち往生して、どうにもならない、と思った時に、
星空の広さ、自然の中でポツンと、自分の存在の小ささを知った」

 

みたいな話で。

 

 

 

 

そして時は流れ、数十年。
小椋佳さんとご一緒する機会があり、
わたしはここぞ!とばかりに突進。
その話を熱く語ったのです。小椋さんに。

 

「今でも、ふっとおりに触れ、あのお話を思い出します。
そして、旅に出る時、ちょっとキツいなと思う時…
今でも、マルコポーロのいろんな歌が背中を押してくれるような時があります‼️」

 

と、それはそれは熱く(笑)

 

 

すると、小椋さんは、あの穏やか〜なお声で一言。
「ああ、そうなんだ…ごめんね。僕、何喋ったか覚えてないんだけど」

 

 

 

 

さて、何を言いたいかと言いますと。

 

「大人は覚えてえいなくても、子どもは『それ』を覚えていて、
しっかりとその身に刻み、そしてそれはいつか子どもの指針となり、子どもを助ける」

 

ことがある、と言いたかったのです。

 

 

 

だから「氣が抜けない」。
けど「氣が抜けない!」と、いつも周りを見回して身構えて、
ポーズを作って生きることはできないので、

 

つまりもう「日々の生き方」ってことになる。
掛け値なしの自分軸。
自分の体験と体感から出た言葉。
(あの日の小椋さんの言葉や、小椋さんがプレッシャーに苦しみつつ生み出した曲の言葉のように)

 

 

 

 

ここまで書くと、先の「知人のお嬢さんのお友達」の言葉が
どれだけわたしにとって嬉しかったか、
わかってもらえるのではないでしょうか。

 

スマートとも素敵とも言えない毎日。
アヒルの水かきの如く。

 

 

そんな毎日の中でも、

光る水滴のようにこぼれ落ちる「何か」があったのだとしたら。

それが若い人に伝わる瞬間があったのだとしたら。

 

 

 

 

本当に生きてきてよかった。
この生き方を選んでよかった。

そう思えたんでした。
(報われた瞬間、と言うんでしょうか。こういうの)

 

 

 

そして、(今これを読んでいる)皆さんも同じですね、
ということも言いたいのです。
みんなきっと、とても頑張っている。

 

 

今回、
皆を代表して、わたしのところに、
「その言葉」が(子どもたちからの見ているよ!という言葉が)
形となって降ってきたような、
氣がしているところなのです。

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