「毒親」とは何か?ーそれはみんながなりうるものだし、なっている瞬間があるもの

 

 

 

 

今朝、何かの記事を見て、俗にいう「毒親」の定義はなんだろう?とふと思ったのだけど。
わたしの思う「毒親」とは、

 

 

「自分の不安や心配や願望、コンプレックスなどの『心的状態』を
 子どもの問題にすり替える親。
 そして、そのことに気づかない(気づこうとしない、見ようとしない)親」

 

 

でしょうか。
(なので、「親」だけでなくいわゆる「毒教師」「毒上司」「毒配偶者」などというものも

存在するだろうな、と思うわけです)

 

 

 

 

ちなみに、
「とても満ち足りた、100%幸福な親」に育てられた人は
そんなにいないと思うので、

 

(敗戦、そしてその後の混乱で、
わたしたちの数代前の先祖の多くは皆、ずっと守り培ってきた価値観の「崩壊」それに
「挫折」が深く刻まれることとなったろうから)

 

 

 

そこからつながるわたしたちは大なり小なり、

 

「漠とした不安・これがないと幸せじゃない!という思い(願い)
よくわからない自己否定・コンプレックス」

 

などを持ち合わせているのじゃないか、と思います。

 

 

 

なので誰でもそういう「状態」(毒親・毒大人状態)になりうるし、
なっているときも実は大いにある、
というのが「案外普通のこと」なんじゃないか、と思うわけです。

 

 

だから、これがあることが悪いのではない。
(逆に、「全くない」と豪語する人の方が怪しいと思ったりする)

 

 

 

 

大切なのは、

 

「自分でそれを認めることができるかどうか。
 受け入れることができるかどうか。
 これは自分のものだ、自分で癒すぞ、と決めて、
 そことしっかり向き合うことができるかどうか」

 

なのだと思います。

 

 

 

 

何はともあれ、
自分の幸せは自分の中にしかなく。
何かの条件によるものでもなく、
ましてや人に託すものでもない、

 

ということはしみじみと思うのです。

 

 

 

そして、全ての大人が、
「楽しく、ワクワクと、静かに満ちて、しみじみと…」
(いろんな言葉がつくけれど😀)
とにかくそういう感じに「自分の」人生を生きていることが。

 

 

自分の「中心軸」で生きていることが、
(親は親の「自分が生まれてきた目的」をちゃんと生きていることが)
子どもの幸せにとって、必要不可欠なことなんだ、

 

と、そう感じます。

 

 

 

 

 

今日はなぜこんなことを書いているかというと、
確たる理由は全く思い浮かばないのだけど。

 

 

 

 

 

今が、分岐点、な氣がするから、でしょうか。
わたしたちは今、分岐点に立っている。
(という言葉が勝手に浮かんできている)

 

 

 

 

 

NLPに、
「親のタイムライン(生きた軌跡)までを遡り、癒し、統合するワーク」
というものがあるんですが。

 

 

 

親のたどってきた人生、思いを癒し、
先祖のたどってきた人生や思いをも癒し、

 

それら全てを美しく力強い「糧(かて)」に変え、
自分のこれからの未来のタイムラインを生きるための
プラスのエネルギーとする。

 

そういうワーク。

 

 

 

 

それは「全て」は、
誇らしく輝かしい「リソース」へと姿を変え、
わたしたちの人生を通して、
次の世代へと手渡されていくことになるのだろう、と思います。

 

 

 

 

そして、それが今、(わたしたちが)できるかどうか?が
案外これからの日本を大きく左右するのではないだろうか、
(その、最後のポイントに今、わたし達は立っている)

 

 

 

と、そんな氣がしています。
こういうのは理屈ではないので、うまく言えませんが。

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに自分はどうなの?という話なんですが。

昔、20代後半だったか30代前半だったか忘れましたが、

 

 

 

「『負の文化的遺伝子』を次には手渡さない」

 

 

 

と、なぜか思ったことだけははっきりと思い出します。

(ちなみに、うちの親が「毒親」だったと言うわけではなく。

日々悩みつつ、生活しつつ、子どもを愛し、

時にはそれが十分にできない自分にまた悩むというごくごく普通の親でした)

 

 

 

 

で、
わたし自身、それが今うまくできているかと問われると、
毎瞬毎瞬「プルプル」しています(笑)
(繊細に揺れて、ズレては戻りズレては戻り…ということです)

 

 

なんですけれど、
周りに色々な「ズレを元に戻してくれる」たくさんの人や
ものがちゃんと存在してですね
それが本当にありがたいと思っています。

 

一人ではなかなか難しい。

 

 

なので、世の皆さんたちも、無理はしないでくださいね、
というのは大いに言いたいところです。

 

 

 

 

 

 

 

 

原作をどこまで尊重するか?そして子どもに何を与えるか

 

 

 

「赤毛のアン」がとても好き、というわけではないのですが。

 

 

子どもの頃、数回は読み、自分なりのイメージや好きな場面もあって。
(アンの親友、ダイアナがアンに間違って飲まされる「いちご水」(実はお酒)が美味しそうだなー、とか)

 

そして、やはり世界に冠たる「高畑勲監督」の名作中の名作アニメ
「赤毛のアン」が浮かんでくるんですが。

 

 

 

 

この春始まった新作アニメ「アン・シャーリー」。
プリンスエドワード島の風景が美しく描かれ。
アンも生き生きと可愛くて。

 

今のアニメ技術で存分に描かれるアンの世界に、
「きれいだなー😍やっぱり絵が綺麗なのは正義だわー」
と見ていたのだけど、
話が進むに従って、少しの違和感が。

 

 

 

言葉にするなら、
「このアン、わたし…ちょっと一緒に暮らしたくないかも」。

 

 

 

カスバート家入り口。
アンを連れ帰ったマシュウに、マリラが
「男の子はどこ?」と言い、「この子しかいなかった」と返すマシュウ。
「なんですって⁉︎」とマリラ。
次の瞬間。
「誰もわたしを欲しくないんだ!」と叫ぶアン。(戸口で)

 

そして、大泣きしながら案内もされない
(人んちの)部屋の中にズカズカと歩み入って、
(人んちの)居間のテーブルにわっと泣き伏して
繰り言を延々と述べながら泣き続けるアン。

 

 

コミカルな演出で、
(コーデリアと呼んで。せめて「e」のついた「アン」と呼んで。
の有名なセリフもここで出てくる)

 

可愛いよ。
可愛いんですが…。
けど。

 

 

なんだかちょっといやだ、この子(笑)
というか、怖い。
アンよ、礼儀はどこへ行った?君の高潔なる矜持はどこへ行った?

 

 

 

 

その後、SNSにて。

 

◉「アンは背筋を伸ばし座る。アンは礼儀正しい。
『クイーン・アン』と後にギルバートが言う芯の強さがアンにはあり、
アンは可愛いお転婆娘ではない」

 

 

 

他にも。

 

 

◉「ヴィクトリア朝時代の少女が膝を抱えて座っていることはありえない」

◉「原作アンのカバンは布の古い鞄。こんな高級な革製のトランクを孤児は持てない」

◉「そもそもアンはピンクを着ない。

(原作に「赤い髪をした者はたとえ想像でもピンクのものは着られないのよ」のセリフがあるとか)
なのに、ポスターでは堂々とピンクを着ている」

◉「ダイアナの黒い瞳と黒い髪にアンは憧れる。なのにアニメのダイアナの目は青」

 

 

 

などなど。
みなさん、すごいです…。

 

 

赤毛のアンの世界観を大切にし、
アンをずっと愛し続けてきた人たちの氣持ちがそこには渦となって溢れていました。

 

 

 

◉「赤毛のアンのアンは
前向きで元気で夢見がちな魅力的な女の子ではなく、
生き抜くために想像力を使った、
愛に飢えたサバイバーなんですよ。

 

そしてアンを支えるのはその気位の高さ。
誰が相手でもそれを崩さない。
アンは単なる一時的な怒りでギルバードを叩いたわけでもない。
アニメ萌え表現に消費される」
(先の、リンクを貼った方の言葉)

 

 

 

なるほど…。

 

 

 

高畑アニメで感じた、

 

「繊細な、触れれば壊れてしまいそうな、
けれどもその奥に存在する真っ直ぐなクリスタルの硬質」

 

を持ったアンの姿を思い出したのでした。

 

 

 

 

さて。
「原作をどこまで尊重するか?」
「今の時代(の子どもたち)に受け入れられる」ための改変。

 

 

 

わたし自身の「好み」なんですが、
原作(設定・キャラ・世界観)を使って、
「自分の言いたいこと、自分の表現したいこと」を脚本家や監督がぶっ込んでくるような作品作りは
好きではありません。

 

 

そして、
「今の時代のテンポ、感覚」に合うように変えることは
あってよしですが、
(時代劇だって厳密に作れば「お歯黒女性」だらけになってしまうわけですし)

 

 

キャラクターの性格や物語の設定における、
「作者が最も表現したかった」根幹に関わる部分の改変は、なし、

 

ではないか、と思っています。

 

 

 

 

ちなみに、
SNSで印象に残ったもう一つの言葉があって。

 

「今はもう、原作を読み込める制作者がいない」
「凜とした少女、を描ける人はもういない」

 

といったもので。
恐ろしいことですが、そういうこともあるのだろうかと思ったり。

 

 

 

 

さて、さらなる願い、なのですが。

 

 

子どもには。
いえ、子どもに届けるものだからこそなおさら、

 

「わからないだろうから変えてあげよう、

薄めてあげよう、
こっちの方が見栄えがいいだろう」

 

といった大人側の安易な、勝手な
(戦後の薄い、毒された「テレビ文化」の中で育った貧困な想像力から生まれた)

「改変」ではなく、

 

 

 

ガッツリと「作者が描いたキャラクター」そのままに
「作者が描いた世界観」
「真に伝えたかったこと」を、
子どもたちに手渡してほしい、と思っています。

 

 

ゆるいお粥のような作品ではなく、
噛みごたえのある強飯(こわめし)を与えて欲しい、と思います。
子どもはそこまでバカでも、愚かでもないのだから。

 

 

 

そこへの思いや努力がないのなら、
「原作もの」に手を出してはいけない、というのは言い過ぎでしょうか。
(上記SNSの方の言葉のように「萌えアニメとして消費」するために
原作の世界観を使ってほしくはないなと)

 

 

何より、原作者が、
「ああ!映像化してくれてありがとう!アニメ化してくれてありがとう!」
と喜ぶ作品になるのが一番だと思います。

 

 

 

 

この「アン・シャーリー」を、
作者のモンゴメリが見たらなんと言うかはもちろんわからないんですけれど。
(案外面白がったりしてですね。
そして、この「アン・シャーリー」。
十分に面白くて「いいアニメ」なことは確かだと思っているのです)

 

 

(上の新旧比較写真は、先のリンクを貼った方のSNSよりお借りしました)

 

 

 

 

 

 

800年前も今も幸せの「方式」は同じだと親鸞上人のアニメで思う

 

 

 

 

 

 

 

前売り券をいただいたので映画館に行ってきました。
「親鸞ー人生の目的ー」

(アニメです。出ている声優さんが結構豪華でですね◁大事なところ)

 

 

感想なのですが。

 

自分を認めよ、そのままの自分を愛せよ、
まず自分が今のままの自分で幸せになれ、
それなくして周りの幸せは、ない。

 

という映画かなあと。

 

 

煩悩はなくらなない。
私たちが煩悩と呼んでいるものは
人の自然な「生」の発露と表裏一体。

 

美味しいものを食べたい→生きる欲求
異性に惹かれる→種の保存の欲求
もっとお金が欲しい→安心や自由への欲求

 

 

それを「よくないもの」として
消そうとすること自体無理がある。
人の素直な「生のエネルギー」に反する。

それを認め、愛し、抱きしめるからこそ、
それの肥大、暴走から、自由になることができる。

 

 

 

前半、
若き親鸞が山にこもって修行をする20年間が
(自分は煩悩まみれだー!死んだらどこへいくんだー!と)
もう見ていてキツくて(笑)

 

「早くやめなよ、そんな無駄なこと」

 

と思いながら見ていました。

 

 

 

逆に、山なんかにこもってるからわからないんじゃないの?
膨らんじゃうんじゃないの?
365日、そればっかり考えているわけで、
そりゃあ、大木にガンガン頭打ちつけたくもなるよ、と。

 

市井に降りて、
目の前のことせっせとやって「生活」しなよ、
真の悟りはそこからしか生まれないわよ。

 

 

なんて思いつつ。
(今、世界中の親鸞ファンを敵に回しているかもです💧)

 

 

 

 

で、思い出したのですが。
悟りたい(解脱したい、だったかな?)僧が
生きながら墓に入るんだったか、
密閉した船で海に出るんだったかをやる話。

 

「何がなんでも、死んでも解脱してやる(変な言い方ですが)」
という…
逆に凄まじい「執着」ともいえると、
はっとしたことがあったんですが。

 

 

 

 

 

さて。
親鸞が生きた時代からすると、わたしたちは少し
「進歩」しているのかな?とも思えます。
人の意識の進化、といったほうがいいでしょうか。

 

 

 

親鸞の時代は、
「阿弥陀仏」「念仏」という「形」を使って、

 

「そのままの自分を阿弥陀仏は抱き止めてくれる」
「だからそのままの自分を愛せよ」
「そのままのあなたで救われる」

 

という「教え」で人を導き救おうとしたわけですが、
今、わたしたちはそれを普通に「知って」いる。

 

 

 

自分の中のたくさんの「自分」を赦し、愛し、
手を携えて生きていくことを知っている。
そこにこそ幸せがあることを知っている。
(サクッとできるかは置いておき)

 

 

 

 

 

ここまで書いて、
人の意識の広がりも進化も、親鸞はじめ、多くの人たちの「修行」
(人間の探究・心の探究・信仰の探究ときづき)
の先にあるものなんだよなと。

 

 

そう考えると「現代人の上から目線」の
「やめなよ、そんな無駄なこと」
ではなく、

 

「ありがとう。あなたたちの『旅』の先に、今の私たちがいる」

 

ということかなあと今、思いました。

 

 

 

 

ちなみに、親鸞の声が櫻井孝宏さんで、その奥様の「玉日姫」の声が花澤香菜さん。

「でた!水柱と恋柱…」

と思いながら見ていたことでした。

マイナーアニメながら、声優さんが豪華でした。本当に。

(櫻井孝宏の声で「なむあみだぶつ」が聞けるレアな感覚&至福感)

 

 

だからある意味「物語」は恐ろしいー「アリこそ正義」に侵食されていた自分にはっと気づいた今朝

 

 

 

 

 

 

アリとキリギリス。

あの、例のアリとキリギリス。

 

 

今朝方、クライアントさんが、
「あれって、本当はああいう話じゃない、という話を聞いたことがあるような…」
と。
そこからしばし、
「アリとキリギリス」の話で盛り上がったんですが。

 

 

「キリギリスは持って生まれた歌の力で冬ごもりのアリたちを、
楽しくしたらいいですよね。
アリはアリの矜持を持って(◀︎この視点がこの方らしい😊✨)
『それくらいの食べ物、どんと来い!俺たちの力を見ろ!』
と、キリギリスを食べさせてあげればいいですよね」

 

とクライアントさん。

 

 

「ですよねえ!
そういえば…なんだかこの話って
『みんなアリであれ』『アリとして生きろ』
『アリが立派』って言われているようにも。
でも、それって考えてみれば無理ですよね。
アリとキリギリスはそもそも違いますし」

 

とわたし。

 

「頑張る」こそ正義。「コツコツ」こそ正義。努力こそ正義。

そんな感じでしょうか。

この話からわたしがずっと、受け取っていた

(そして無意識のうちに肌身に染み込んでいたところの)メッセージは。

 

 

 

それから
生きるためには、歌も必要です。
踊りも必要です。芸術が必要です!
(魂のご飯です!)

 

と…
話がなんだかあちこちに広がって行ったのでした。

 

 

 

 

さて、今日、声を大にして言いたいのはそういうところではなく。

 

 

「物語」というものは人の無意識に深く深く入り込み、
個々人の価値観を作り、世の中の価値観を作り、そして「時代の風向き」(方向性)
を作る、ということを言いたかったのです。

 

「物語」は人を勇氣づけ、能力を発揮させ、鼓舞し、解放もする。
「物語」は、とても容易に「ある価値観」「ある状態」に持っていくこともできる。
それが「物語の力」。

 

 

「物語」は、だからこそある意味「恐ろしい」。
人の「意識のガード」をやすやすと超えて、
無意識に音もなく入り込み、
わたしたちは、それに「染まって」いることさえ氣づかない。

 

 

 

わたしたちの周囲に溢れる「物語」には
(毎日流れてくるニュース含め)
どんな意図がその奥にあるのか、
一体、それは
「わたしたちに『何を正義とし』『どこへ導こうと』しているのか?」
そんなことをちょっと考えてみるのも面白いかもしれません。

 

 

 

さて。
で、今もし、まだわたしが教員をしていたら、なのですが。

(話は飛びますが)

 

 

この「アリとキリギリス」の話を元に、
ここから、たくさんの価値観を体現した、新しい「アリとキリギリス」の脚本を
子どもたちに作ってもらうだろうなあ〜

 

と思います。

 

これからの時代を生きる彼らに、
新しい「アリとキリギリス」の世界を。
たくさんの、いろんな生き方の「アリ」や「キリギリス」の話。

 

たくさんの価値観を、世界を発見してほしい、
創造して欲しい、と思うのです。

 

例えば…
「それぞれの強みを活かして、
一緒に『新しい村』を作るアリとキリギリス」とか??

 

 

で、
それをお芝居にして、子どもたちみんなで舞台を作って
あちこちで上演して回ることだろうなあ、
と思います。
声を出して、全身で、存分に思いっきり
「新しい物語」を自分たちの身体に刻み込んでほしい、と思います。

 

(在職時代にこういう自由な発想にならなかったのが
誠にまことに残念です。
子どもたちとたくさんお芝居は作っていたんですが)

 

 

 

春のセンバツ、市立和歌山の川辺謙信主将の宣誓がすごかった件(「心を掴むプレゼンの枠組み」にのっとっていた件)

 

 

 

 

 

 

 

一昨日の春の甲子園の選手宣誓が、よかったのですよね。
短い中に「物語」があった。
短い中に聴衆の意識を過去から今、そして未来へと連れていく壮大な「仕掛け」があった。

 

 

 

●「高校野球は100年以上にわたる長い歴史の中で、幾多の困難や、
苦難を乗り越えながら発展してきました」

 

そして「大正、昭和、平成、令和…」と言葉で繋ぎ、
イメージを喚起し、一瞬のうちに観客と共に時間を旅する。

 

(そうだ、そうだぞ!ずっと、いろんなことがあった。
本当にいろんなことがあった。よくここまで続いてきた…と涙するわたし)

 

  ↓

 

●「わたし達は、今、大好きな高校野球を続けることができています」

 

現在に到着。
今、その高校野球を共に「見ることができている」
自分たちにも「氣づく」聴衆。自分たちも今ここにいるのだ。
「わたしたち」の中に入っているのだ。

 

(本当、奇跡だわ〜!感謝だわ〜!と、もはやここで、

心は野球以外の全てのことに飛んでいるわたし)

 

そしてさらに今の(課題)を提起。
「そして現在、野球人口が減少する中…」

 

  ↓

 

●「この大好きな高校野球をさらに魅力あるものに発展させ、
未来の高校球児へとつないでいく責任があります」
「今まで支えてくれた全ての人たちへの感謝を胸に、仲間を信じ、
そして、未来のために、全力でプレーすることを誓います」

 

みんなの目を、意識を、未来へ。未来のありたい姿へ。
(だよ!その通りだよ!わたしもそうする!という熱い塊が胸の中に沸いているわたし)

 

 

 

美しい。

なんて美しい流れ。

 

 

 

 

 

これって、昔学んだ、
「インフィニティ(♾️)ストラテジー」だったか、

 

の枠組みなのですよね。

 

 

「過去の出来事をつなぎ、橋をかけ、今につなぎ、
そこから今度は未来の好ましいイメージへとさらに繋げていく」

 

という構造が書かれた説明の紙をもらい、
(その紙にはまさに「♾️」の形の図が書き込まれていました。ちょうど真ん中の交差点が「現在」)

 

 

 

それをギュッと手に持って、実際にフロアをうろうろとしながら
(過去・現在・未来と動き回りながら)
何回もプレゼン練習をしたものです。

懐かしい。

 

 

 

 

 

さて、人というものは。

 

 

 

生きていく上で「物語」が必要な生き物なのだ、と思います。
「つながり」が必要な生き物なのだとつくづく思います。

 

 

時のつながり。
先人たちとのつながり。
思いのつながり。

 

未来の子どもたち。
まだ見ぬけれど、
確実に自分たちの思い、行動の延長線上に
存在することになるであろう
人たちとのつながり。

 

その結果出現するであろう世界とのつながり。

 

 

 

その「滔々たる流れ」の中の
「意味ある一人」として
「意味ある一瞬」を生きている。

 

自分も、「それ」を担っている。

 

 

 

そう思えた時に、
今持っている錘(おもり)は軽くなり、
歩むエネルギーが湧いてくるのだ、と思います。

 

 

 

 

この「つなぐ」という仕組み。
歴史上の偉人の「人を動かした名プレゼン」をみてみると、
この「つなぐ」ことをやっているプレゼンが結構あるのですよね。
(♾️などと名づける以前に、人の心が動く時の、とても自然な流れなのだと思います)

 

 

 

自分の「大切な思い」を誰かに伝える必要のある人。
大勢の人に、自分の「思い」を伝えて、揺り動かしたい場面のある人

 

 

 

 

興味のある方はぜひやってみてください。

 

「混じり気がない」「純粋な」は本当に善か?

 

 

 

「不純物を極限まで取り除いた水は、『いい成分』も全部取り除かれている」

と何かで読んだのですよね。

 

殺菌、除菌はわたしたちのからだの「常在菌」も殺してしまう。
(身体を守っているよい菌も)

 

 

完全なる「清潔」。
完全なる「健康」。
完全なる白。
完全なる光。
完全なる善。

 

 

 

というものは、この世に存在するのだろうか。
というか、
それを追い求めるのは、自然に反した
とても「歪(いびつ)」な行為のだろうな、

 

と今朝、ふと思ったので書き留めてみました。

 

 

人だって、自分の中の雑多なるもの。
悲しみとか、怒りとか、悔しさとか、妬ましいとか…

 

こういう「闇」というか
自分の中の色々な感情を、
ないものにすることはできないですし。
(無理にそんなことをしたら返って大変なことになる)

 

 

きゅっと、幼い5歳児を抱きしめるように
抱きしめて、声を聞いて、癒しながら生きていくしかない。

 

しかない、といいますか、
それこそが、その人の「味」であり
美しい陰影を持った複雑な味わいの
「どこにもない魅力」になるのかな、と思います。

 

 

 

と、ここまで書いて、
昔、中国で、農作物を食べる「害鳥」だから、とスズメを全部殺し、
結果、虫が大発生してもっと大変!という話を聞いたことを
思い出したんですが。
(研修時に聞いたんですが、セミナールームの参加者全員で

「あり得ない〜」「中国やりすぎ〜」と大笑いした覚えが)

 

 

過度に何かを嫌う。
過度に何かを(ある状態を)追い求める。

 

 

というのは、自然界ではあり得ない「形態」なんだろうな、
と思います。
人間の「思考」だけが生み出す、虚構の世界。

 

 

 

ということで…
みんな、今日はとりあえず、自分に優しくしましょう。
全てにおいてあんまりピリピリしないで
ほどほどに。

 

と、自分に一番言い聞かせている今朝です。

 

 

(写真は近所のお庭の梅です✨)

 

もしも、録音された「音」だけでなく「場に満ちる『何か』」までも再生できる機器があったなら➡︎あった

 

 

 

 

 

 

少し前、圓生をよく聞いていたのですよね。
廓の「張見世」(あの、遊女が並んでいる格子システム)をリアルで見たことがあって、
「江戸」の空氣感を演じられる最後の落語家。

 

で、
圓生の一番古い音源を再生して、
そこにいたお客さんたちの空氣も含めて、伝わってくるものがあるとしたら
どんなにかすごいだろう、と思い。
とある方に聞いてみたところ、

 

「そういうことになるかもしれません」
(と言ったような)お返事が。

 

 

 

この日、地元鹿児島は吉野にあるMAI Factoryさんにスピーカーの試聴会に行きまして。

(正確には「アンプ」の視聴会、なのですが)
音の洪水の真ん中で身体中に音を心地よく浴びる体験をしまして。

 

 

で、これらを作成された方に、
「アンプ」というもののことを色々と聞いたのですが、
実はここでその万分の一も再現することができず。
(なかなかに難しかった)

 

ですので、
今から書くことは、わたしの頭の中に
「残っていた」
「強烈に焼きついた」
ことだけ、なのですが。

 

 

 

❶アンプ職人はアンプを「アート」と捉えている。
なので、「自分の色(演出)」を出そうとする。
音に反映させようとする。

 

❷この方の作るアンプにはそれがない。
ただ純粋に「数値」のみを追い求めている。
(つまり、エゴが入ってない、とわたしは捉えました)

 

❸あなたの機器ならわたしの「氣」がわかるかも、
と氣功の先生から「氣」の収録を依頼されたことがある

 

❹この機器で再生されたBGMは、エンドレスでもイラっとっしない

 

 

他にも色々とすごいお話を聞いたんですが…^^;
で、もしかしてこういうことでしょうか?
と先ほどの圓生の話をした所
「そういうことかも知れません」

 

と言ったようなお返事が返ってきた、と。

 

 

 

で、その日、圓生の代わりに、
100年ほど前の「チェロ組曲」の音源を聞かせてもらったのです。
果たしてそれが、
100年前の「場の空氣」までも再現しているのか…

 

それは正直、わたしの耳ではわからなかったのですが、
けれどなぜか?少し涙が出てしまったことも
確かなのでした。

 

 

 

 

今日言いたいことは。
「そこ」に他意を挟まない。
「俺が」「わたしが」と言った「いらないもの」が入らない。

 

そういう人は、やがて「神様が喜ぶような仕事をすることになる」
と、そういう感じでしょうか。

 

 

 

この方が、
「『その音』のことを一番よく知っているのは、その音を奏でている人。

(そこにいろいろくっつけるなんておこがましい)」

 

 

と言ったようなニュアンスのことをおっしゃったことが
とても印象に残っています。

 

 

 

 

すごいアーティストさんたちが、この方の機器を選ぶのは、
まさに、
「ずっと研ぎ澄ませ続けてきた自分の音」
「ずっと研ぎ澄ませ続けてきた自分の思い」

 

それを、ただただ、まっさらに、極限まで正確に、
そのまま増幅してくれる機器だから、
なのではないか、と思ったのでした。

 

 

そして、
これはわたしの仕事とも似ているのです。
その人の最も「その人らしい」音をそのまま、極限まで増幅して
世界へ届ける仕事、と自分の仕事を捉えています。
そうありたい、と願っているわけで。

 

 

思わぬところで、

自分の中心軸とつながるような、

雑なものが細胞から全部出ていくような、すっきりとした体験をすることができました。

 

 

 

なんにせよ「よいもの」というものは、

人を軽くして「本当」「本質」「ありのまま」にかえすものなのだな、と思ったことです。

 

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