昔、教員をやっていた頃、
「将来の夢」といった作文を書いてもらうことがあったのですよね。
で、一人、白紙を持ってきた男の子がいまして。
今でもその時のことをたまに思い出すのです。
その彼なのですが、
「書いとくか、とりあえず」の子や、
「マジな力作」の子や、いろいろな中で、
本当に困ったような、悲しそうな表情で、
「ない。僕は思いつかない…」
と。
今思えば、「とりあえず書いとくか」などという考えすら浮かばず、
真剣に原稿用紙に向き合い、
そして時間を過ごした結果をそのまんま、
正直に持ってきたのだな、と。
その子の表情と、
大柄な背中のいつもより窄まった様子を思い出すたびに、
胸がキュ、と痛むような感覚を覚えるのですが。
さて。
「将来何をしたいか」(いわゆる「進路」)を考えるときに。
私たちは「外界にもはやある基準」、
世の中にもはやある「概念」「区切り」を通して
そこに「自分」を当てはめようとする癖がある。
というか、ずーっと、そのようにして
「自分」を「もはやある型」に当てはめ、
生きていくように「躾けられて」きたように思う。
「何になりたいの?」➡︎
「サッカー選手」「お花屋さん」「パティシエ」「公務員」…
そうではなくて、本当は。
「それ」を通して、
「何を(どんな感覚を)味わうのが好きだからそれをしたいのか」
を見なければならないのだ。
「うちの子は、ゲームばっかりして困るんです」
ではなく、
「うちの子は、ゲームの中でいつも『助けて』ばっかりなんです」
と、言えるようにならなくてはならないのだ。親は。
(詳しくはこちら。
『子どもを動かす『動詞』ー今日から家庭でできる進路さがし』
私もまだ読んでいないけれどきっと良書)
https://www.maruzenjunkudo.co.jp/products/9784908555831
明治大学の斎藤孝先生も、
「動詞」に注目せよ、と言っている。
そこに、その人の「本質」(特質=ずーっと発揮していられる才能)
が隠されているのだから、と。
斎藤先生は「練る」ことが好きだったらしい。
とても好きだったらしい。
子供の頃は、駄菓子屋の水飴を白くなるまで練るのが本当に
好きだったらしい。
そして今、その「練る」という本質を、
自身の仕事で存分に発揮しているのだ、と。
ずーっと何かを「磨いていた」子はいないだろうか。
いろんなものを「合体させて」ばかりいた子はいないだろうか
「普段人が開けないところを開けて」ばかりいた子はいないだろうか。
(私のクライアントさんは、これ。「仕組みの本質」を
なんでも見て取れるので、独自のやり方で製作するお仕事に)
私の仕事も、
「コーチ」と一括りには、とてもできない。
その中で「発揮している特質」はそれぞれ千差万別。
(理論肌・分析肌・直感肌・五感肌…)
完全に「その作り出す世界」は一人一人が別物のように思う。
話戻って。
あの頃、あまりにもざっくりとした、
なんの繊細さもない授業をしていたことに、
本当に、土下座したいような気持ちになるのだけど。
あの頃、こういう知識があったなら。
こういう視野を少しでも持てていたら。
彼も、あんなに肩身の狭い思いをしなくて済んだのに、と思う。
そもそも、ああいう授業自体、しなかった。
みんな。
大切な人のことを、世間の「区切り」ではない、
曇りのない眼でじーっと見てみてほしい。
そして、何より「自分自身」を見てみて。
深く深く、自分を見てあげて。
あなた自身の「本質」は、
一番あなたに見つけて欲しがっているのだから。
* * * * *
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この文章が、ちょっと心に響いた方のために、
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