世の中は簡単で単純でシンプルでいいー年末の大掃除と共に、自分の中も絶賛大掃除中ー

 

 

 

 

今年は結構早くに大掃除を始めてしまい、
ただいま家の中が散れに散れてしまっているんですが、
(開かずの押し入れとかに手をつけてしまうと、そうなる)

並行して、
「自分の中身」も絶賛大掃除中です。

 

 

 

 

 

昨日、自身のセッションで、
(わたしがメンターから受けるコーチングセッション、の意)

 

 

『かんたんな方法じゃダメだ』

ー簡単にうまくいくはずがない。
ー自分で考え、難しい課題をクリアしてこそうまくいく。
ー全て自分で頑張らないと欲しいものは手に入らない。

 

 

という考え方の「癖」(信念)
を、根強く、根深く、後生大事に持っていた、

 

ということを発見して、大いに驚いたところです。
(PCに向かって「それです!それそれ!」と叫んでしまったくらいに)

 

 

 

 

けれどまあ。

思い返してみると、むべなるかな、なんですよね。
しようがないよね(それしかやり方、知らなかったよね)
という諸々の「歴史」があるわけで。

(こういうのって、みなさんにも何かしら、あると思うのです。
世界とはこうだ!という自分自身の「信念(考え方の癖)」を
生み出すに至った体験)

 

 

 

 

で。
めでたく、「その信念」の下、これまで相当頑張ってきた自分を、

「改めて確認し」
「認め」

そして、

「存分に感謝し、いたわる」

というプロセスを経てセッションは終了しました。
なんだかとてもラクになった。

 

 

 

 

そして今朝。
(正確にはさっき)

文章でも書こうかと、昨日のセッションメモを開けたところ、
いきなりどん、と目に飛び込んできた文が、

『かんたんな方法じゃなきゃダメだ』。

え…?
と一瞬思ったんですが。
つまり、見間違えたのです。読み間違えた。

 

 

 

 

『かんたんな方法じゃダメだ』
と自身の「ビリーフ(信念)」をメモしていたんですが、
   ↓
『かんたんな方法じゃなきゃダメだ』

 

 

と脳が認識した、と。
つまり一夜にしてわたしの無意識だか潜在意識だかが、
書き変わった、ということか?

 

 

 

 

と。(少しびっくり)

 

 

 

さて。
それによって何が起こるか…
詳しくは書きませんが、
不思議と、努力とは無縁の「棚ぼた」のような嬉しいことが起こったり、
タイミングよく情報を聞いたり…

ということが続けてあり、
(つまり、妙に世界が「簡単」になっているような(笑))

「自分の思っていることが自分に返ってくるのだなあ」

ということを静かにしみじみと実感している今日。

 

 

 

 

さて。

「この世界が自分にどんなカードを配るかは、
自分が自分自身をどう扱っているかによって決まる」

という言葉を昔、何かの本で読んだことがありますが。

 

 

 

今年1年間。さまざまに溜まった書類。
モノ。

押し入れの奥から取り出し、
目の前に広げ、確認し、精査し、手放すものは手放す。

とっておくべきものは埃をふるい、丁寧に棚に戻す。
大切なものは改めて磨き上げ、ピカピカにして、
一番使う場所に改めて置く。

 

 

 

どんなに大切にしてきたものでも、
役立ってきたものでも、
自分を助けてくれたものでも。

年月と共に必ず「変化」が訪れます。

自身の成長とともに、
もう使わなくなったり、
そぐわなくなったりすることもある。

 

 

今の、これからの、来年の自分にとって、
最も心地よく、幸せな状態に住まいやモノを整えるように。

 

 

 

「自分の内面」にある戸棚の引き出しも開けてみる。

そこに何が収められているのか?
どんなルールブックを自分は今、使っているのか?
それは有効か?
(大体、いつ作ったものなのか?)
それは今の自分の支えと助けになっているか?

 

 

 

これらの作業も、
実は、ものすごく、ものすごく「有効な」大掃除、であると感じます。
(何せ、「生きること全ての土台」ですから)

 

 

 

さて。
わたしの2023年版「マイルールブック」に書き加えたのは、

 

 

『世の中は簡単で単純でシンプルでいい』

 

 

ずっと使い慣れてきたルールの変更です。

少しの不安と、そこはかとない寂しさと。
そして、
静かな解放感を感じているところです。

 

 

 

 

 

来年へ向けて–まず自分が今年「得たもの」について思いを巡らす

 

 

 

 

 

メンターコーチから、

 

「公子ちゃん(と、彼女はそうわたしを呼ぶ)

自分が意識してないだけで、
いとも簡単に(意図しただけで)手に入れているもの、
たくさんあると思うよ」

 

 

と言われ、
そういえばそうかな、と思ったのでした。

 

 

 

本当に、「意識して」ちゃんとそういうことは考えないと、

ついつい、

「ないもの」
(あれがない。これがない。これがまだだ。手に入っていない)

の方に意識が向きがちになってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

で、昨日、12月1日。
(ちなみに、滅多にないことに、11月中から小さくあちこち掃除を始め、
なんと!年賀状も作成を始めている今年←わたしにはすごいことです)

 

 

 

改めて、姿勢を正し、しっかりと座り、

「それ」

について考えてみることに。

 

そうすると、正直…あまり出て来ないことに愕然としているところです。
(ない、のではなくて、いかに「忘れてしまうのか」ということに。
もしくは「当たり前」の箱に入れてしまっていることに)

 

 

 

 

 

 

 

そんな中、絶対に忘れられない思い出の一つ、
について書いてみることにします。

と思ったのだけど、書いていて恥ずかしくなったので、これは消してしまいました。
(やっぱりこれは宝物なので、自分の心のうちだけにとどめておこう、と)

 

 

 

 

 

 

けれど、「それ」は。

 

自分が最高に楽しんでいて、
全てを忘れて(人の目がどう、とか)
全身全霊で味わって、喜んでいる時。

まるで、細胞がどんどこと音を立てて、祭り太鼓を奏でているような感覚の時、
思いもかけないところから降ってくる、という

 

 

 

「自分自身の『うまくいっているパターン』」

 

 

 

だけは、しっかりと再確認することができました。

 

 

 

そうやってわたしは、
たくさんの人と出会い、
よきものと出会い、
素晴らしい体験をたくさんしてきた。

 

(堂々と書いてみましたが、こういうことは、自分で認めて、
自分で「そうだ」と認定しないと、本当に、「なきもの」とか
「大したことないもの」になってしまうのです!)

 

 

 

 

 

 

 

さて。
もうすぐ今年も終わります。
来る年、

 

「何をしよう」
「これをやりたい」
「こんな一年に」

 

あれこれと考えたり、書いたりしてらっしゃる方、多いかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

その前に、
「今年(これまで、でもいいですし)自分にするりともたらされたもの」
「今年(同上)自分の元にやってきた素敵なもの、素晴らしいもの」

 

 

 

 

 

 

について、改めて思いを巡らせてみるものいいのでは、
と思います。

そこには、自分自身の「方向性」(うまくいっているときの形)が刻まれている。

 

 

 

 

 

その「形」を明確にして。

 

(「結局、自分はこの形なんだな」
「無理しても意味ないやん」
「自分でないことをやっても意味ないな」
「迷ったらここに戻ればいいのね」などなど…←わたしの中に今、起こっている声)

 

 

 

 

 

 

そして来年へと進んでいくというプロセス(一段階)を持つ。
これは、なかなかに有効なことなのではと感じているところです。

 

 

*  *  *  *  *

 

 

写真は「前田コーヒー」。
京都文化博物館の中庭にある、「いい感じのカフェ」でした。
エスプレッソに牛乳を混ぜると「ラテ」じゃなく、
違う名前になるんですが、なんですっけ。

 

 

 

 

「自分は幸せである」と感じる理由を「人」だけに頼るのは危うい

 

 

 

 

 

 

 

と、いうようなことを養老孟司先生が言っていたのですよね。
(YouTubeの、しかも「切り抜き動画」を見ただけなのですが)

 

 

 

講演会の会場の人たちに、事前アンケートをとって、
(あなたは幸せですか?ならびに、そう思う理由)
それを元に、養老先生が話している。

 

 

 

 

「10代の時にいじめを受けた人が、20代になってそのことを書いた本を読んだ。
皆さんのアンケートを見て、その本を読んだ時と、同じ印象を受けた」

 

 

 

と。
その「同じ印象」とは、養老先生の言葉でいうと、

 

 

 

 

 

 

「花鳥風月が一切出てこない」。

 

 

 

 

 

 

場内アンケートにあったのは、

「こういう人間関係があるから幸せ」
「こういう友がいるから幸せ」
「家族がこうだから幸せ」

 

 

 

幸せの「よって立つ」ところが、人、人、人…

 

 

 

 

これは、裏を返せば、「人(人間関係)」によって、
いとも簡単に「不幸」にもなる、と言うことだ、と。
(いじめなんて、まさにつまりそういうことだ、と)

 

 

 

 

 

 

 

 

さて。
花鳥風月、とはつまり「自然」ということなのですが。

 

 

「人間関係が辛い時に、
自分だったら
『死体(死体は「自然」だから)』(←解剖学者)
『虫』(←虫大好き)

そういう世界と語らっていたら、
人間関係の悩みなど、どうでもよく思えてくる。(生きてるだけですごいだろう!と死体を見ていると思うし)」

 

なんだそうで。

 

 

 

 

 

 

 

 

人間関係が全て。
うまくいかないと、もう行き場がない。逃げ場がない(心の)。
他に「繋がる」ところを知らない。

 

 

というのは、確かに危ういなあ、と思います。
それで、命をたつことを選んでしまう人もいるわけですし。

 

 

 

 

 

 

「そこに、風は吹いていなかったのか?
鳥は鳴いていなかったのか?」

 

by養老先生

 

 

 

 

 

 

 

齋藤孝は、現代人の「感情」と「精神」のバランスの悪さを書いています。

 

 

 

現代人は「感情」が肥大してしまい、感情に振り回され支配されているが、

かつては「精神(志・こころざし)」というものが、
感情の暴走を抑え、心のバランスをとっていた。

が、戦後、「精神」という言葉は、

「愛国精神」「軍国精神」

と言ったように、
何か悪いもの、古臭いもののように扱われてしまっている…

と、そういう内容だったかと。

 

 

 

 

 

 

 

さて。
養老先生が小さい頃は、人の世界と、自然、「半々」だったそう。
どちらも「近しかった」。
ほんの七十数年ばかし前のことですよね。

 

 

 

わたしたちの祖先は、たくさんの世界とアクセスし、

 

「そこで心を自由に羽ばたかせる」
「心をあそばせる」

 

あり方を知っていた。
この広大な世界の中で「人との関係」というのは、

 

 

 

「その一部に過ぎない」

 

 

 

 

ということを、体感的にわかっていたんだと思います。

「侘び」
「寂び」
「もののあはれ」

なんていう言葉は、そのことをよく表している。

 

 

 

 

 

 

今日はちょっとまとまりませんが。
(テーマが壮大すぎるのだよ、と思いつつ)

 

 

けれど、
自分を生かすものは、目の前の人間関係だけではない、
ということは、ものすごく思うのです。

 

 

 

ミルフィーユの如く、重層的に、
わたしたちは、実はたくさんの世界にまたがって生きている。
多くのものとつながり、
実は時間も空間も超えて、多くのものからのエールを受けつつ、生きていると感じます。

 

 

 

 

そうそう…。
そういうふうに生きられたら、狭い視野の中できつい思いしなくていいよ、

ということを養老先生は言いたかったのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

*   *   *   *   *

 

 

 

写真は一昨日の渡月橋。
ちょっと用があって京都に行ってきたんですが、
(弾丸ツアーな感じであまりゆっくりできなかったんですが)

すっかり京都、元に戻っていて、人だらけでした。
ここで「いろんなもの」と語らうには、ちょっと集中力が…。

けど、わたしにとっては
京都はとても「アクセスしやすい」場所なことは確かなのでした。

 

 

 

いい時間でした。空気は冴えて、山は美しい。

 

 

 

この地球上に、誰一人として「同じ人」はいないと改めて実感する。 例え同じことをやったとしても、全く違うものが出来上がるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

ウエディングプロデュースの会社にいた頃の話なんですが。
当時流行り始めていた「人前挙式」の台本を、
近隣のホテルの婚礼担当の人たちがもらいに来ていたのです。

 

「どんな風にやるのですか?」
「進行台本を下さい」

と。

 

 

 

 

 

わたしのいたプロデュース会社の社長の方針は、
「惜しげなく、全て与える(空いた空間に、また新しいものが入ってくるのだから)」。

 

 

 

 

同地域のホテルの方々にも、台本や、
その際に使う革のフランス製(だったかな?忘れた)のかっこいい署名シートや…

そんなものを全て。

 

つまり「挙式を美しく、厳かに、新郎新婦とご列席の方々、全ての心に
一生残る最高の時間と空間になるための演出を」

惜しげなくお伝えしていたと記憶している。
(今考えても本当にすごいな、と思う)

 

 

 

 

 

 

で。
いつだったか。

プロデューサーを辞めてからだったかもしれないんですが、
「見た」のですよね。どこかの式場で。

とてもそっくりな台本と進行で人前挙式をやっているところを。
その時、ちょっとびっくりしながら思ったのです。

 

「同じものをやっても、こんなにも違うものなのか」

 

と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうしてこのことを思いだしたかというと、
知人がこの度、新しいことを学ぶことになりまして。

 

で、その方が、ちらっと、
「他にもやっている人はいるし、もっと早くから取り組んで、もはや形になっている人もいる。
けれど…『どうせ自分は』と言ってしまうのはもったいない」

 

 

と。
ほんとうに、その通り!(どうせなんて思う必要なし)

 

 

 

 

「これまでに様々な体験をして、いま、この瞬間にいる、という、
その『これまでの体験』込みですごいと言いますか。

あなたが今後、されることは、
それ単独ではなく、これまでのあなたの『すべて』の上に乗っかって、
構築され、これまでの全てと渾然一体となって、
ますますあなたならではの『価値』を発揮していくことになると思います」

 

 

 

とメールを送ったのですが。

 

 

 

 

 

 

世の中の1000人が1000人、同じことをしたとしても。
この世の中に形となって現れるものは全部違う。
元は同じ水でも、あなたという「地層」を通って、
唯一無二、その人だけの「ミネラル含有の水」になって滲み出てくる。

 

 

子供のころの記憶。身体に刻まれた体験。
やってきた仕事。
喜び、悲しみ。
何度となく味わってきた心震える感動の瞬間
本当の望み
そして、何より「それ」を通して、どんな思いを表現したいのか

 

全て、みんな違う。

 

 

 

 

 

こんなにも違うのに、
その「唯一無二」の「そのあなた」を通して出てくるもの、
この世界に表出されるものが、ありきたりなものであるわけがない。
そんなことあるわけがない。
そして、この世界には、

 

 

「そこがいい!」
「あなたのそれこそがツボにハマる」

 

 

 

という人たちが必ずいる。
そういう人たちと出会うことになっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

例え万人「そのこと」をやっている人がいたとして、
神様は、「あなたに」「あなたの方法で」
表現してほしいのだ。
発信して欲しいのだ。

だからこそ、神様はこんなにもたくさん人間を作った。

 

 

 

 

 

 

 

 

早いもので、今年もあと少し。
2023年、何かを始めようと、少しドキドキしながら動きだしている「あなた」。
よろしければこの言葉、心の中にinしてお進みください。
(心から応援しています)

 

 

 

 

 

「考えをまとめてから話す」「考えがまとまったら話す」はもう古い

 

最近思い始めた『20年後』にどんな姿で立っていたいか(同年の方々、どうですか?)

 

 

 

 

 

伝統料理を発掘、継承している人たちの活動を取材した番組があったのです。
その土地の女性たち(80代,70代)を中心に、料理をする様子が出ていたんですが、
それを見ていて、

 

 

「80代と70代って…こんなに違うのか」

 

 

とびっくりしたんでした。
何が違うかと言いますと、立ち振る舞いやコメントが、

 

 

 

「テレビ向け」

 

 

 

かどうか、という一点で。

 

 

 

 

 

 

 

 

その番組に出ていた70代の方のコメントや振る舞いは、
完全に「テレビでよく見るやつ」。

 

 

例えば…
「◯◯(食材の名前)の声をよーく聞くんですよ〜」とか、
「子育てもそうでしょう〜?」などなど。

(確かにそうなんでしょうけど、どうも、その人が「いつも使っている」言葉には聞こえず。

それに食材の声を聞くって、もはや使い古された表現にも感じるのですよね)

 

 

 

 

食材を混ぜるレポーターに、甲高い声で
「そうそう〜♪上手上手〜♪」と言いながら5本の指をぱあっと広げて、満面の笑みで、
顔の前でパチパチと手を叩く仕草。

 

若い女の子のタレントさんがよくやるのを見ますけど。
(何というか…ちょっとそぐわなく感じたのですよね)

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしの中で、70代80代というのは
人生の年輪を重ねた、尊敬すべき「人生の先輩」であり、

酸いも甘いも噛み分けた、なんというか…
しっかりと軸を持って、大地に根を張った大木のような、
というイメージがあり。
(イメージというより願望、期待、願い?)

 

 

 

で、
はたと氣づいてしまったのでした。

 

「そうだよなあ…70代といえば、もはや『テレビの洗礼』真っ盛りの中で育っているわけだもんなあ」

 

と。

 

 

 

 

何がいいか。
何がかっこいいということか。
何が受け入れられるか。
どうあるのが幸せか。

 

物心ついた頃から、それは全部、「テレビが決めてきた世代」の走り。

 

 

 

 

 

 

 

その後、この会を立ち上げた
80代の女性のインタビューがあったのですが、
こちらはもう…低めの声でゆっくりと静かに話されるその感じに、
「自分の芯」から話をされる感じを受け。

きっと、テレビであろうが、誰であろうが、
この佇まいで、この声で、この言葉なんだろうなあと。
(枝振りの良い古木のようなかっこよさを感じたことでした)

 

 

 

 

 

 

 

 

たった10年のことで、
こんなにも違ってくるのか??

 

と。
日本という国の何か、歩んできた道の縮図を見てしまったような氣になったんですが。

 

 

 

 

 

さて。
70代と80代では…と書きましたが、
80代だからいい、90代だからすごい、ということではなく、
若いとダメ、ということでもなく。
多分に「個人差」だよなあと思いつつ。

 

 

 

それでも、ちょっとびっくりしてしまったので書いてみました。
(それに、言葉や所作に関して、わたし自身の「好み」が大いに入っているので悪しからず、なんですが)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに、
わたしがこの場面を見た瞬間、浮かんできた言葉を真正直に書きますと、

 

「ああ、70代もダメだなこりゃ〜」。

 

(誠に誤解を招きそうな言葉です。

「先達だと思ってたのに!」「頼れる先輩だと思ってたのに!」「自分たちと一緒かよ〜」

というショックが言わせた言葉ということで、大目に見てください。
くれぐれも世代ではなく、個人差ですし。わたしの「好み」の話ですし)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて。

 

最近、「これからどんなふうに歳を重ねていくか」。
もみじが紅葉するように、身体も心も、さらに成熟していったその先に。

 

 

 

自分は、どんな姿で立ち続けるか。
立ち続けていられるか。
立ち続けていたいのか。

 

ということを、たまにですが考えるようになりました。

 

若い時にはただ、そこにあるだけで美しい。
溢れる生氣。
細胞から放っておいても発するみずみずしいエネルギー。
若いときは、誰だってそこにいるだけで、目を引く魅力に溢れている。

 

 

 

 

 

 

けれど。
これからますます「ごまかしのきかない」年代に入っていくなあ、と思います。

 

花が落ち、
深い深紅の紅葉のその後、

木の幹、枝…それらがただ厳然と、そこにある。

なんの飾りもなく、否応なしに晒されるとき。

 

そんな時、自分はどんな太さの幹を持ち、どんな枝ぶりでそこに立っているのだろうか。
過ごした時間が作り出した根の形が、幹が、枝ぶりが、
願わくばしっかりと自分の魅力になるような…

 

 

 

 

 

そんな時間を過ごしたいし、そういう姿でありたい、
(し、次の世代の前にそういう姿で立っていたい)
と思うのですれけどね。

 

 

 

 

 

 

 

*  *  *  *  *

 

※これはどこの桜でしたか。
ちょっとすごすぎる例を貼ってしまいました。

 

 

「足りない」より「ここにある」から出発する方がいい-教頭先生方の研修会にて

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日、鹿児島は南薩地区の、小中学校の教頭先生方の研修会に行ってきたんですけれど、

その時に出されたオーダーが、

 

 

 

「先生方はとにかく忙しい。だからホッとする時間にしてほしい」

 

 

 

だったのに、結構な感動を覚えたのでした。

この仕事を始めてもうすぐ20年。

正直言って「初めて」のオーダーな氣が。

 

 

 

 

これまで、

たくさんのオーダーを受けてきたけれど、

「こんな力をつけてほしい」

「こういうふうになってほしい」

 

 

 

 

 

 

まあ、当たり前です。

研修というのは、一般的に「そういうもの」ということになっていますんで。

 

「こういう力をつける」

「こういう知識を得る」

 

つまり、

「もっとこうなってほしい」。

 

 

 

 

 

 

けれど。

裏を返せば「足りない」「不足している人たち」という視点で

「その人たち(参加者)」をみている、ということにもなる。

 

「あなたはこういうところが足りない」

「もっとこうなりなさい」

 

 

という目で見られ、

「だから行って来い!」と研修に突っ込まれて、

嬉しいはずがない、とも思うのです。

 

 

 

 

 

「先生方は忙しい。

 

(確かに!こと教頭先生の忙しさは超弩級であると考えられます。

わたしも教員時代によく拝見していました…早朝でも、もはやいるし、夜、未だいるのが「教頭先生」)

 

だから、何よりほっとする時間を」

 

 

 

 

この言葉に、先生方の日々の頑張りへの深い信頼を感じたのは、

わたしだけでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

「今」への信頼。

そして、それを

「さらに豊かに発揮できるような、そんな『エネルギー』となる時間を」

そんな、依頼者の思いを感じたのでした。

 

 

 

 

 

 

「研修とは、今ある自分の素晴らしさを知り、認め、誇り、そして、

それをさらに、自由自在にのびのびと、発揮するためにあるものなのだ」

 

 

 

 

 

 

3年くらい前、

そういうことを書いた氣がするんですが、

今回ほらねと、再確認です。(クスッと笑う得意げな自分がいる)

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてこれは、わたしたち自身に関しても同じで。

すべての体験。

これまでの自分の人生。

歩んできた歴史。

 

 

「もっとこうであったら」

「どうしてできないのだ」

「なぜ、こうなのだ…」

 

 

さまざま思うところもあるでしょうが、

この人生を生きてきて、今ここにいる自分。

この時間を、このプロセスを否定してなんの意味が?と思うのです。

 

 

わたしたちは、頑張ってきた。

本当に、十分に頑張ってきた。

 

 

そして、たくさんのことを学び、身につけ、その傷までもが、

糧として、今や自分のかけがえのない唯一無二の輝きを形づくっている。

そう、その傷なくて、今のあなたはいなかった。

 

 

 

 

 

 

わたしの前にいるあなたの笑顔をつくっているのは、

あの日、奥歯を噛み締めていたあなた。

静かに涙を流していたあなた。

悔しさと無力感に膝をついたあなた。

だったりするのです。

(そんなあなたと出会えて嬉しい、といつも思う)

 

 

 

 

 

 

全、肯定。

もし、あなたが肯定できなくても、わたしが全肯定したく思う。

今、ここにあるあなたこそがまず何より美しい。すごいと思うし、尊い。

 

そして、結局、そっちの方が、ずっと効率が良くて、

エネルギーが満ちるので、うまくいくのです。

 

そして、すべてのものとの関係性の土台はここ、なのです。

 

 

 

 

 

*  *  *  *  *

 

 

《雑記》

鹿児島の「南薩地区」には、温泉で有名な指宿が入っています。

(この研修自体も、会場は指宿だったのですけれどね)

 

 

そして、指宿の官公庁の「夏の公式ウェア」は「アロハシャツ」なのです。

さすが、南国指宿!

秋口とはいえ、まだまだほとんどの指宿の教頭先生方が、「アロハシャツ」でのご参加でした。

(いや〜、爽やか^^)

 

 

 

他にも、頴娃(えい)という地区があってですね。

(難しい方言No1と言われる方言を持つ鹿児島でも、

特に特徴がある言葉の地区で、県内では「英語」ならぬ「頴娃語」と呼ばれているんですが)

 

そこの教頭先生方の「チームウェア」はかっこいいポロシャツでした。

 

 

 

 

本当、時代は変わったんだなあ…。

(しみじみ)

でした。

 

 

 

 

 

頭で考える以前に。脳を通して言語化する以前に身体に刻まれた「個性」の話

 

 

お子さん(2歳)が、お米の中に手を突っ込んで遊ぶ、とのことで。

「この間なんか、あっと氣がついたら、お米を撒いてたんです。ぱああっと!」

 

それは、いい音がしたことでしょう(笑)

 

 

 

で、その方。
「食べ物で遊んではいけない」
ということをどう伝えたらいいか、と。

 

 

 

ふむふむ…わかる〜(しみじみ)
わたしも、手ぇ、突っ込んで遊んでましたもん。米櫃に。

 

 

 

あの冷たい感触。
キュッとなる音。
周りからさらさらと崩れてきて、手が次第に埋まってくる、あの「圧」。
…面白くって、何度も何度も繰り返してましたっけ。

 

 

 

 

この話を聞いた時に、まず思ったのは、
「お子さんは『感触』を楽しんでいる」のだ、ということ。

 

お米のサラサラ感。
パラパラという音。
キュッキュッと鳴るあの感じ。

それらを味わいたくてしようがない。

 

 

子どもの興味は、
「食べ物を粗末にして…」という大人の「見方」とは全く違うところにある。
多分、お子さんはそれが「食べ物」である、ということも、その瞬間忘れてしまっているであろう。

 

 

 

 

 

で、お伝えしたのは、上記のこと、

(感触それ自体を楽しんでいる、ということ。
まさに、感触自体を開氣、磨いている途中である、ということ。
そこに「悪いことをして!」というノリで叱っても、意味がないであろうこと)

 

それから、代替物として、例えばクッションの中に入れる白くて小さいビーズに
手を突っ込めるよう準備してみてはどうか、
きっと、米である必要はない。「本質」が同じなら。

 

 

と、その2点をお伝えしてみたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

さて。

その「感触」「感覚」について。

人の個性、特質、強みは、頭で考え、言語化される以前に、
実は、そういうところにしっかりとあらわれている、と読んだことがあります。

 

 

上のお子さんは、お米に代表されるような、
さらさら、パラパラという「細かい粒」の感触が好き。
(きっと、小豆なんかも好きでしょうねえ、と言ったらその方いはく「ですねえ!」と)

 

 

けれど、粘土を握ると指の間からニュルっ、と出てくる、
ああいう動きは嫌いなんだそうです。

 

 

 

 

何度か書きますが、
「にほんごであそぼ」の監修、明治大学の齋藤孝先生の話。

 

斎藤先生は「練る」という動きがお氣に入りで、
子どもの頃は駄菓子屋で水飴を買っては、
「練る」。
練って練って、空氣が入って白くなるまで練るのが大好きだったそうで。

 

 

 

 

で、
その「練る」という特質は、大人になってからのご自身の仕事の仕方に、
顕著にその特徴が生かされていると。
内容を「練って練って練る」ことが全く苦でない。

 

その人の好きな動き、好きな感触、
ずっと味わいたい「身体の動き」自体に、その人の「個性」「特質」があらわれている、

 

 

という意味のことを、齋藤先生は書いていたような。

(と…この話、書くにあたって、どこにどの本にあったかと、

あちこちひっくり返してみたんですが、どうも見つけることができず。
「カラダ言葉」としての客観的な話は出てくるんですけどね。
けれど、一応このまま続行してみるのでした。違っていたらまた訂正します。

けど、体感的に「違う」氣もしないんですよね)
                                                         

 

 

 

 

 

 

さて。
わたしは「磨く」とか、好きです。
(今朝も、古いトランクをせっせと磨いたばかり)

 

 

 

企画書にも、
そういえば「練磨」「研磨」といった言葉をよく使います。

他にも「研ぐ」という動きも好き。
小さい頃に、刃物を研ぐ父の手元や、水を含んで滑らかに滑る
刃物の先の「シュッシュッ」という爽快な、
濁るもののない音をよく聞いていたからでしょうか。

 

 

 

 

「研ぎ澄ます」という言葉もよく使いますし、
常にその感覚で、場を作り、言葉を選び、文章を書いている氣がします。

 

 

 

あなたの好きな「動き」は?
その動きから、ずっと味わっていたい、と思える「感覚」は?
心地よかったり、気持ちよかったり…自分の状態をより「整えて」くれる「動き」は?

 

 

 

 

ウグイスは美しい声で鳴き、
ペンギンは流線型の姿で水を弾丸のように切り裂くのが
「自然」なように。

 

 

 

 

言葉で考える以前に。
脳で考える以前に。

 

 

 

ずっとずっと、あなたの「特質」
(あなたは何者で、どんな響きを持ち、何を発揮すればいいのか?)
をしっかりと、はっきりと顕している「方向性」が、
自分の身体の中に埋め込まれ、存在している。

 

それには「氣づいて」いたほうがいい。
まあ、自分の「取説」の一項目とも言えますしね。

 

 

 

 

(そして、お子さんの「強み」「個性」を知る際には、とにかく観察、ということかなと。
言葉以前の、お子さんの身体に埋め込まれた、元々備わった「質」が存在する。
そこに合致した「習い事」などがいいように思うのです)

 

 

目をかけられ、心を向けられ、愛されているものが放つ「ひかり」

 
 
 
 
 
 
知人が実家の冷蔵庫の断捨離をする機会があったそうで。
で、知人いはく、
 
「出るわ出るわ…(賞味期限切れのものが)」
 
の中、
捨てるのがためらわれたものがあったんだそうで。
その「もの」はこんな感じ。
 
 
 
 
『ひとつだけ、手に取った瞬間、なんだか艶が感じられて、捨てるのがためらわれた瓶詰があり』
 
 
 
 
で、お母さまに訊くと、
「それ、あの子が(知人の妹さんですね)が大事にしてるから置いといて」と。
 
 
 
夜になって帰宅した妹さんの反応も、冷蔵庫スッキリ!の喜びの声と同時に、
「あの瓶詰めは…あ、捨てられてない、よかった!」
だったそうで。
 
 
 
 
 
 
『断捨離のブログか何かで、「愛されてるモノかどうかは他人が見てもわかる」
といったことが書かれてたのを見たことがありますが、私も実感しました』
 
と、知人。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さて。
 
 
 
「艶が感じられ」
 
 
 
ここ、なんだかとてもわかる氣がするのです。
 
 
 
 
 
モノはもちろん、
肌も。
食べ物も。
 
 
 
 
 
 
「手をかけ目をかけ」たものは、
例えばかけた金額の多寡や豪華さとは関係なく、何か違う、と感じることが多い。
 
なんでしょうね、あの美しさ、いじらしさ、愛らしさ、しみ入ってくる感じ…
まるで、その「モノ」からも嬉しさが滲み出ているような。
 
 
 
 
 
(こういう話をすると、まず思い出すのは、
昔映画で見た、森のイスキアの「佐藤初女さん」の梅干しなんですが。
天日干しされているそれはもう、本当に完全に「ルビー」状態)
 
 
 
 
 
 
 
そして、この、知人いうところの「艶」。
付け加えるところの「みずみずしさ」「ほのかなひかり」は、
 
 
人を見ていてもそうだよなあ、と思うのです。(特に、身近な人であればあるほどわかる)
 
 
 
 
 
 
 
 
以前、何かで読んだのですが。
 
自宅の部屋に置いた鉢植えの花に、水をやらなければ、やらなければ、と思いつつ、
なんとなく、忙しさにかまけてやらずにいた。
 
毎朝出がけに「あ!」と思うのだけど、時間はないし、まだいいだろう、まだ大丈夫だろう、と。
そうしたら、いつの間にか花は枯れていた。
 
 
 
「ああ、もっとちゃんと、早くに水をあげればよかった。可哀想なことをした」
 
 
 
と後から思う。
花はちゃんとサインを出していたのに。
メッセージを送っていたのに。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「艶」「ほのかなひかり」。
 
その逆に、
 
「カサカサした感じ」「しょぼんとした感じ」「淋しい感じ」…
 
何かが足りない。
陽の光、水分、栄養…それらが足りない植物のような、そんな感じを人から受けることもあります。
 
 
 
 
 
 
 
人も、モノも、植物も、必要なものは同じ。
「目を向けられ、心を向けられているか?」
 
 
 
 
それを一言で、大きくいうと「あい」ということになるのでしょう。
 
 
 
 
 
(写真はわたしがこの数年「目をかけ心を向けて」いる我が家の紫陽花の鉢植えです。
今日の雨に絶賛風情を醸し出し中)
 
 
 

変われるってすごいよねー進化する仙巌園(鹿児島名所)

 

 

 

「仙巌園(せんがんえん)」

 

というのは、鹿児島市内にある「旧島津家別邸」の名称でして、

鹿児島県民は昔から「磯庭園(いそていえん)」と呼んで、

親しんでいる場所なんですが。

 

 

(ここ)

 

 

 

 

「磯庭園」といえば、

小学校の頃、遠足で一度は行くところ。

で、

あとは10年のうち、行って1〜2回、ですかねえ。

県外の人が来たからどこ連れて行こう?

じゃあ磯庭園行っとく?みたいな。

 

 

 

 

 

綺麗なお庭も、立派な御殿も一度見れば十分。

 

県民にとっては、(よっぽどわたしのような史跡好きでない限り)

「何度も行く」場所ではなく、

海沿い、国道10号線の脇にある大きな屋敷と庭園。

観光客が行くところ、の認識だったわけですが。

 

 

 

 

 

 

 

その仙巌園が、

ものすごい勢いで変化を始めたのは、2年前。

県外からのお客様が全く見込めなくなってしまった時。

 

 

 

 

 

 

長く休んでいるなあ仙巌園〜、

仕方ないよなあ〜、

大変だろうなあ〜、

と思っていたのですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

ある日、休園中の仙巌園が、県内のお客様向けのツアーの募集をしている、

と知ったのは梅雨も近い頃。

しかも、とてもリーズナブルな料金!

 

で、早速応募したわけなのですが。

 

 

 

 

 

当日は、ざんざかぶりの雨。

せっかくのツアーなのに…とちょっとだけ鬱陶しい気持ちで現地に行きました。

が…

 

 

 

 

結果。たのしかった。

とても楽しかった。

今でも、「ああ〜、あの日、楽しかったよなあ」と、

ちょっとほっこりとなるくらいに、楽しかったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

そのツアーは、いわば「パイロット版」。

仙巌園の皆さんの「活路を見出す」ための知恵と工夫とアイデアと「実験」、

そして、何より熱意に溢れていた、

と。

 

思い出すに、そうだったのだろうなあ、と思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

アクティビティでは、

入社はしたものの、休園のせいで今日まで一度もお客様の前に出たことがありません、

という新人のスタッフさんが、

少しだけ緊張しながらも、全力で体験をサポートしてくれました。

 

(薩摩切子のガラスでアクセサリーを作ったのですが、

説明にはじまって、作成途中での、「素敵な色です!」「いいと思います!」「うまいと思います!」

という可愛らしい声かけがとても嬉しくてですね)

 

 

 

 

 

 

 

衣装の着用体験も、

お食事の時間も、

なんと言いますか…

 

とても「一人一人の『人』として接してもらっている」感じがしたのでした。

一緒に喜んで、一緒に楽しんもらっている感じ?

正直、ここで、こういう「嬉しさ」を味わったのは、初めてのことでした。

(大きな有名どころの観光施設は、少々接客が少々まずくても仕方ない、と、昔はそう思ったこともあり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて。

何を長々と書いているかと言いますと、

わたしの知人がここに勤めていまして、

 

「今、新しい体験コーナーの準備中で、今日はミシンを踏んでいました!」

 

と。

 

 

 

 

 

HPを見ると、知らぬまに、体験コーナーがたくさん増えており。

(全部体験してみたい〜!)

 

 

ああ、あれもこれも、

一人一人のスタッフさんたちが、

手作りで心を込めて作っているんだなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

仙巌園。

以前から「年パス」愛用者ではあったのですが、最近行くのがとみに楽しいのは、

 

「大きな有名観光どころ」から、

(いや、変わらずそうではあるんですが)

 

 

加えて、

「顔の見える、血の通ったもてなしが(人とのつながりが)待っている場所」

へと、

 

 

進化し続けているからだろうな、と思うのです。

 

 

 

 

 

正直なところ、

「老舗」の大きな場所(組織)が、あんなふうに変わって行きつつある、というのはすごいよな、

と素直に思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

がんばれ、全国の観光地。

 

 

 

 

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