「混じり気がない」「純粋な」は本当に善か?

 

 

 

「不純物を極限まで取り除いた水は、『いい成分』も全部取り除かれている」

と何かで読んだのですよね。

 

殺菌、除菌はわたしたちのからだの「常在菌」も殺してしまう。
(身体を守っているよい菌も)

 

 

完全なる「清潔」。
完全なる「健康」。
完全なる白。
完全なる光。
完全なる善。

 

 

 

というものは、この世に存在するのだろうか。
というか、
それを追い求めるのは、自然に反した
とても「歪(いびつ)」な行為のだろうな、

 

と今朝、ふと思ったので書き留めてみました。

 

 

人だって、自分の中の雑多なるもの。
悲しみとか、怒りとか、悔しさとか、妬ましいとか…

 

こういう「闇」というか
自分の中の色々な感情を、
ないものにすることはできないですし。
(無理にそんなことをしたら返って大変なことになる)

 

 

きゅっと、幼い5歳児を抱きしめるように
抱きしめて、声を聞いて、癒しながら生きていくしかない。

 

しかない、といいますか、
それこそが、その人の「味」であり
美しい陰影を持った複雑な味わいの
「どこにもない魅力」になるのかな、と思います。

 

 

 

と、ここまで書いて、
昔、中国で、農作物を食べる「害鳥」だから、とスズメを全部殺し、
結果、虫が大発生してもっと大変!という話を聞いたことを
思い出したんですが。
(研修時に聞いたんですが、セミナールームの参加者全員で

「あり得ない〜」「中国やりすぎ〜」と大笑いした覚えが)

 

 

過度に何かを嫌う。
過度に何かを(ある状態を)追い求める。

 

 

というのは、自然界ではあり得ない「形態」なんだろうな、
と思います。
人間の「思考」だけが生み出す、虚構の世界。

 

 

 

ということで…
みんな、今日はとりあえず、自分に優しくしましょう。
全てにおいてあんまりピリピリしないで
ほどほどに。

 

と、自分に一番言い聞かせている今朝です。

 

 

(写真は近所のお庭の梅です✨)

 

「場の力」を知れー「してあげる」ことだけが親の仕事ではない

 

 

 

 

 

幼子の遊ぶ様子を、同じ部屋にいて20分間「ただ見守る」ということができない、

という親の訴えが次のようなもの。

 

「手を出そう、口を出そう、先回りして指示しよう、道を指し示そうとしてしまう。
親の役割というのはそういうものだと思っている」

 

 

 

「それはこうだよ」
「そのおもちゃはこうやって遊ぶんだよ(と「正しい使い方」を示す)」
「次はこれをしたら?」

 

 

(子育て番組の話です。
子どもの中に「アタッチメント(乳幼児が親との間に築く信頼)」
を育てるために、親が20分間、口を出すことなくただ「遊びを見守る練習」をする)

 

 

 

 

教員でも同じようなところが(わたしは、ですけど)あって、
よーくわかる。

が、これでは育たないらしいのですね。

 

 

子どもの絶対的な安心感。見守られているという安心感。
その土台の上に乗っかって初めて子どもが発揮することができる、

 

 

 

「自分でやろう、自分で行こう、自由自在に冒険しよう、どこまでも行ってみよう」

 

 

 

という「自立のこころ」。
(将来、「自立心」となって発揮されるであろう「心の種」と言うべきか)

 

 

それには、
親との空間が「絶対的な安全・安心の空間」であることが絶対条件なのです。
そこを「安全基地」として、
子どもは初めて興味を外界へと向け、冒険できる。

 

 

 

 

 

 

その親御さん、悪戦苦闘の末、一つ「会得」する。
「ああ、これなんですね、これでいいんですね!」と。

 

「今、私は太陽なのだ」
とその親御さんは言いました。

 

「そう思うと、手も口も出さず、ただ見守っていられる」と。

 

 

 

 

 

何かをする。してあげる。与えるのが親の仕事。大人の仕事。
違います。

(とあえて言ってみる)

 

 

親の仕事は、まず「そこにあること」なのです。

 

存在すること。
最高の状態で、存在すること。
太陽のように、さんさんと絶対的な安心感と「愛」でもって、
ただ「そこにいること」。

 

 

Doing(何をするか)の前に、Being(どうあるか)なのです。
(こちらもどうぞ。
https://commu-w.net/2024/11/10/それはつまり
『それはつまり、親の努力じゃなく言葉になはらない意識の方が伝わる、ということじゃなかろうか』)

 

 

 

 

 

場の力、というものの大切さ、凄さを知る。
その空間に溢れる「空氣」。
自分の身体から出て、その空間を形作っている
「何か」についてもっともっと敏感になる。大切にする。

 

 

 

「何かをしなければならない」「役に立たなければならない」
が一番になると、
「それに貢献していない人」「それができていない状態」の評価は
一氣に下がります。

 

けれど、そうでしょうか?

 

 

 

 

昔から日本人は、「場」という感覚を大切にしてきました。
(プレイス、ではない、たくさんの意味のこもった概念であり感覚です)

 

何かが「出来る」という小さな視点のみでなく、

 

 

「場を作れるあり方」
「場を温められるあり方」

 

 

そのものに価値をおき、
大切にしてきた民族ではないでしょうか。
(と、大昔の、祖母の膝の上の「あの感覚」を思い出しています。あれより「無上の愛」の体験を未だ知らない)

 

 

 

日本人は、いつから「場」というものがわからなくなったのだろう?
疎かにするようになったんだろう?
と思います。

 

 

「場の持つ力」を知れ。
自分が自分自身の存在で、あり方で、波長で
「どんな場」を作っているかを、知れ。

 

 

 

「何をしたらいいの?」
「どう言えばいいの?」
「どう言えば伝わるの?」

 

 

 

 

のはるか以前、
コミュニケーションの根っこの根っこの大切な部分です。

 

 

 

オンラインではコミュニケーション力は育たない

 

 

 

コロナ騒動の頃、オンラインで、

インプロ(即興演劇)の初歩のコミュニケーションゲームのワークショップを

やったことがあるのですよね。

 

その際、ウォーミングアップで「参加者全員でリズムを合わせる」
ちょっとした遊びをやったのですが、
これが「全く合わなかった」。
もう、グダグダ。

 

 

で、
ご参加のピアノの先生が、
「チャレンジャーですね!」と。
その時の彼女の少々呆れたような声を今でも覚えているのですが。

 

彼女は、その頃早々にレッスンをオンラインに切り替えており、
音のプロだけに、
「微かな誤差が生じる」というオンラインの特性をちゃんと
把握していたわけなのでした。

 

 

 

 

 

さて、表題の件。

 

語彙力ですとか、意思の疎通ですとかそういう部分ではなく、
コミュ力のもっと土台のところ(土台なだけに大切なところ)
ということです。

 

 

 

「オンラインでは脳が同期しない」
と言ったのは「スマホはどこまで脳を壊すか」の著者、榊浩平氏。

 

「同期」というのは、
「何かを共にするときに、本人たちの脳活動がそろう現象」なんだそうで。

実験の結果、
「オンラインで会話をしている人の脳の状態は、
一人でぼうっとして何も考えていない時と変わらなかった」と。

 

 

 

 

「通信速度の違いによる違和感」
「視線が合わない」

 

ことを榊さんは原因として挙げていますが、
わたしの慣れ親しんだ言葉で言うならつまり、
「息が合う」
という、コミュニケーションにおいて最も大切な現象が

オンラインでは起こらない、ということなのかなと。

 

 

息(呼吸)が合っている、という状態は
コミュニケーションの「土台」(いや、真髄)で、
例えば会話の際には、

 

・リズムの合った相槌
・心地よいうなずき
・視線のやり取りの瞬時のタイミング

 

などからそれを感じ取ることができるわけですが、
それら「非言語コミュニケーション能力」がオンラインでは育たない、と。

 

 

榊さんいはく、
「対面コミュニケーションがほとんどなくなったら、わたしたちの脳は同期しなくなり、
相手の視線や表情から相手の気持ちを推し量ったり、共に共感する機能は失われていきます」

「脳は筋肉と似ており、たくさん使うほど発達します。使わなければ子どもだと育たず、
大人だと機能が衰えます」

 

 

 

 

 

何を言いたいかと言いますと。

 

オンラインの利便性をわたし自身、存分に享受しつつ、
(以前はわざわざ遠方まで出かけていた様々なトレーニングが、
今はオンラインで部屋に居ながらにして参加できるなんて、

なんていいんだろう!《感涙😭》といつも思っています)

 

 

けれど、体感的にずっと思ってはいたのです。
「けれどオンラインでは真のコミュニケーション力は育つことはない」
と。
「どんなにリアルなVRができたとしても、
『その場に行って』体験することに代替できるものでは、絶対に、ない」
と。

 

 

 

 

温度。
空氣の渦。
人の作り出す熱の波。
言葉では言い表すことができない、
けれど「そこ」に満ちている感覚。

人が発する「何か」。

 

畢竟、コミュニケーションを交わす、とは「そこ」なのです。
「そこ」を感じ、キャッチし、
分かち合える「センサー」の質こそが
「コミュニケーション力」の本質であり、「コミュニケーションの質の差」なのだと思います。

 

 

 

 

 

オンライン使います。
動画、毎日見てます。
ゲーム、やります。
(わたし自身の話です)

 

 

なのですが、全ては「バランス」。
オンラインは知識の取得、情報の交換には便利ですが、
それだけでは「身につかないものがある」。

 

 

 

 

生の体験。リアルでのコミュニケーション。
「身体センサー」をちゃんと磨くことができるコミュニケーション体験。

 

 

「コロナ」という歴史的に例を見ない時期を過ごしてしまった
(そして、こどもたちをその渦に巻き込んでしまった)
わたしたちは、今後ますます「意識して」子どもたちに
身体体験を伴った、質の良いコミュニケーションのための場を作る必要がある、
とつくづく感じます。

 

 

(※毎日新聞 2024年12月21日の記事を参考にしています)

 

 

 

※写真は珍しい積雪の桜島です。さっき撮ってきました。

この2日間、雪が結構嬉しかった鹿児島県民は確実にいると思うのでした。

つまり、日本人の「自然の摂理」を五感で見て、聴いて、感じてキャッチして表現できる繊細な力が、世界に認められているように感じる

 

 

 

日本の「伝統的酒造り」が無形文化遺産に登録決定しましたね。
我がふるさと、鹿児島にもそれこそたくさんの焼酎蔵がありまして、
みなさん、本当に嬉しいことだろうなあと思うことなのです。

 

で、早速に「酒作り」の特集番組を見て、
「すごいなあ」とその凄さを噛み締め、味わっていたところでした。

 

 

 

 

日本人の食と健康に欠かせないたくさんの伝統的発酵食品。
その元となる
【麹菌(アスペルギルス・オリゼ)】は国菌。

 

で、
それをずっと「繋いで」きた種麹屋さんが出ていました。
三百年前、室町時代からずっと、種麹を「植え継いで」育ててきた。
今でも、その人たちが育て増やした「種麹」が
日本中に渡っている。

 

 

自然に蔵にあった菌を、「育てる技術」を室町時代から持っていた、と。
すごい…。
すごすぎます。

 

 

 

 

 

そして、杜氏さんの言葉。

 

「五感を駆使して、麹の状態を見極める。
触ってわかることがたくさんある。
熱。水分のこもり具合…

 

麹が自分の力で。
自力で、自分で自分を作っていく。
それの環境を整えるのが親、っていうふうに思えば、
子どもの力に応じて、それを生かした育て方が重要」

 

 

 

 

この言葉が、一番胸に「ぐっと」ときたんでした。

 

結局、人間は、
「自然」に学んで、大自然の動き、はたらき(摂理)をよーく見て、
それを「法(のり)」として(方法、でもいいか)動くのが、
一番間違いがないんじゃなかろうか、と。
全てにおいて、です。
教育。
医療。
商い。
政(まつりごと)。

 

 

 

かつて。
わたしたちには、それをするだけの「ゆったりとたゆたう時間」と、
それをキャッチするだけの繊細な感覚。
そして、大自然への畏敬と感謝があったんでしょうね。

 

 

 

 

仕事の前、神棚に全員で手を合わせる杜氏さんたちの姿を見ながら、
「仕事」というものはなんでも、
昔は「祈り」と隣り合わせ(というか、同義)だったのかもしれない、
とも思えました。

 

祈り、という言葉がピンとこないというならば、
「感謝と切なる願い」
でしょうか。

 

 

 

自分一人の力では何も生み出すことはできず、
「いただいているのだ」ということがわかっている。
自分も「大きな摂理」の一部となって、
大切な人たちの健康や心の充足や幸せのために
「これ」を送り届けるのだ、という願い。

 

 

 

酒造りのような、自然の力を借りるものだけではなく、
全てにおいて、そういうスタンスが根底にあったのではないか、
と思えます。

 

 

 

 

今日はまとまりませんが。
自分自身もそういうふうに仕事をしたいと思いますし、
そういう姿勢で「素晴らしいものや場」を生み出し続ける
たくさんのプロフェッショナルたちが、
わたし自身の身近にもたくさんおり、
(多くの人たちの顔が浮かびます)

 

 

また日本の国全体としても、こういった多くの方々の恩恵を
被る(こうむる)ことができる環境にあることを、
幸せに思うことなのです。

 

 

 

 

制限も枠もなく「自由にしてください」と言われると、案外自分が「そう出来ない(思ったより自由ではない)」ことに氣づくものだ

 

 

 

写真は、先日書道ワークショップに参加の際に書いたものなんですが、
これを書くまでに小さな発見(衝撃?)がありまして。

 

 

お話などあれこれと聞き、そしていよいよ「筆をふるう」時間となり。
大きい広幅用紙も目の前に広げてもらい、
(何枚書いてもOK!ということで、山ほどの広幅用紙が準備してありました)

 

「さあ!」

 

と書くだんになって、
何も浮かばなかったのです。
書きたいものが。

 

 

 

で、仕方なく、
無限大(♾️)を縦につなげたような、
筆のウォーミングアップでよく書くにょろにょろの図を書いたり、
場内にいる人の名前を小さく書いてみたり…
そのあとは、
「うどん」とか「うなぎ」とか(うのつく看板シリーズを)
書いたりしながら、
内心戸惑っていたのでした。

 

 

「何も浮かばないなんて…💦」

 

 

たいして書きたくもない、意味のない字を連ねつつ思ったのは、
これまでやってきた「お習字」というのは、
手本ありき、だったもんなあ。ということ。

 

お手本があって、それを写すのが当たり前。
いかに綺麗に、いかに正確に写すか。

 

自分で何を描きたい、など思ったこともなかったし、
もちろん聞かれたこともなかった。

 

 

書くぞー!
かきまくるぞー!
爆発するぞー!

 

という心に反して、
真っ白な、圧倒的な、完全なる「自由」の前に、
身体はしっかりとフリーズしてしまったのでした。

 

 

 

写真は、やっと心身ともに「溶けてきて」、
6割?くらいのアクセスで書いたもの。

 

(何へのアクセス?と問われますと、
本来の書きたいとか表現したい、楽しいとか…
自分の中にふつふつと湧き上がるものへのアクセス、
という感じでしょうか。

 

さらに言いますと、

 

 

「なんかいい言葉を書かなきゃあ」
「説明できる言葉を書かなきゃ」
「あの人、変なこと書いてるって思われたら恥ずかしい」

 

 

などなど…
うるさい思考がだいぶ静かになった状態、とも)

 

 

 

「6割の字」ですが、
それでも、見ると、書いた瞬間の感覚が
湧き上がってきます。
(今は部屋の壁にでーんと貼ってある。嬉しくて捨てられない)

 

身体の中から湧き上がってきたものが、
腕に、筆につながって、墨と紙の間の摩擦でバチバチと音を立てていたような感覚。
自分の全細胞が歓んでいるような感覚と言いましょうか。

 

 

 

 

今、この文章を書きながら思っていることは、
「自分の本質」との回路は、
やっぱり密に、スムーズに開いていた方がいい、ということです。

 

いつでも、
どんな瞬間でも、常にすぐにアクセスできるように。

 

 

あなたは何がしたいの?
何が欲しいの?
あなたは何者なの?

 

 

と問われたときに、瞬間、すぐに、
その答えが自分の中から溢れ出るように。
(そこの回路が詰まっている人たちもたくさん見てき、手伝いもしてきました)

 

 

それが、
生きる上でとてもスムーズに幸せに生きられる、
ということではないか、
と思います。

 

 

一瞬一瞬の選択は、
自分の「そこ」に添うしか自分にとっての「正しさ」「幸せ」の道はなく、
その選択は、ますます嵐のように、数多く訪れると思うからです。
これから特に。

自分の中心から動くと、最も自然に力が発揮できる

 

 

 

 

2週間ほど前、ちょっと動くと途端に首がバリバリと痛くなることが数回あり、

考えた挙句、

 

「重い荷物を腕だけで持ち上げようとする」

 

のが原因だなあ、と気づきまして。

 

 

筋力の衰えに反して(筋力が落ちているのも問題ですが!)

持ち歩く荷物の重さは変わっていないもんなあと。

 

 

そうなると「腕から動く」のをやめる必要がある。

腕の力のみに頼るのをやめて、

 

「中心から動く」。

 

「古武道の身体の使い方を介護に活かす」

的な番組で見た知識を思い出しながら、

臍の下。丹田と呼ばれるあたりから動く。そこを意識して、連動して動く。

を意識しているのだけど、

そうするとだいぶよいのです。楽になった。

(今やすっかり首は元気です)

 

 

 

ここで思い出しているのですが。

 

ダンスを踊る際に、

「腕を動かす」「足を動かす」というような意識の踊り方だと、

一見、派手に上手に踊れているように見えても、

バタバタした素人くさいダンスになってしまうのです。

 

 

身体の中心に落ちた一滴の水。

その波紋が同心円状に全身に広がっていくような感覚で動くといい。

 

身体の中心で起こった静かな揺れが、

指先、足先までしんしんと広がっていくような動き。

 

そして、自分の手、足を通り越して、

空間全体に「わんわん…」と広がっていくようなイメージで動くと、とても美しい。

 

 

(わたしが教員だった頃の教え子さんでこういう動きをする人がいましてね。

肩先をピクン、と動かしただけなのに、

場の空気を一瞬にして変えるような彼女のダンスを今でも思い出します。

微かな動きの中に、

彼女の中心から湧き出る『律動の強さと純粋さ』を感じたものでした)

 

 

 

 

そして。

これは身体の動きに限ったことだけではなく。

(と言いますか、一時が万事。共通している)

 

 

語るということ。

言葉で伝えるということも全く同じなのです。

 

 

自分の中心で起こった振動。(思い。感情。意図)

自分の中心で発生する、

純粋な「最初の一滴」を常に捉え、

そことのつながりを保って、そこから言葉を発するといい。

 

 

自分の「最初の一滴」から生まれた振動が、

同心円状に外にしんしんと広がっていくように、

声を出し、言葉が出せるととてもいい。

 

 

そこには余計な飾りなど発生する余地は全くなく。

 

「どう言おう?」

 

も、

 

「かっこよく言おう」

「いいふうに言おう」

「ウケないといけない」

「面白くないといけない」

 

も何も存在しない。

 

 

 

そういうふうに、

「本当の言葉」

「自分の中心としっかりと繋がった言葉」

「その瞬間、その場で、その相手との間にしか生まれない、鮮度100%の言葉」

 

を出している人や場面に出会うと、本当に心動かされます。

 

 

 

「立て板に水」とか、「話すのが上手いよね」

などとは全く次元を異にする語り手。

 

そんな人が、いるものです。

(そして、実は誰でもそういう言葉を持ち合わせている)

 

 

 

ちなみに。

わたしは先に書いたダンスの上手い教え子さんの語る様子も好きでした。

ゆっくりと、時間をかけて、言葉を探し出すように話すときの視線。

自分の中に深く降りて、

最もしっくりくる言葉を丁寧に捕えようとするその雰囲気が。

 

 

 

 

 

もしも。

 

言葉が「一語いくら」と値段がついているものであったら、

一瞬たりとも、一語たりとも無駄に使うことはできない。

みんな、自分の「真の意図」を最も表現できるものを、

探して探して、厳選して選び出すだろうなあ、と思います。

 

 

 

 

そして、

実はそれくらい意識して言葉を使ってもよいのでは、とも思っています。

 

言葉は確かにただですし、

湯水のように溢れるようにダダ漏れさせても誰も何も言わないし、

いくらだって走らせることができる。

 

 

けれど、

「自分の中心と繋がっていない言葉」

は人に届かない時代に、これからますますなっていくように思います。

 

 

届かないどころか、

自分の人生に対して。

自分の大切な人たちの幸せに対して。

早晩しっぺ返しが来るような氣すらするのです。

 

「小さな気がかり」こそ、完了させると大きな力が戻ってくる

 

 

 

 

一昨日、知人の腕時計を見せてもらったんですが、
それが、

 

 

「中学生の時から使っている」

 

というものだったのです。
お祖父様からのプレンゼントだそうで。

 

お祖父様、本当にいいのもを選ばれたのだなあと、
その思いや、大切に使っている知人の思い。
また、丁寧で繊細な生活の仕方に本当に感動してしまい。

 

 

 

で、
ふと思い出したのは、仕事机の引き出しの中で眠っている自分の時計。

分解清掃もしてもらい、大切にしていたのですが、
最後に電池が止まってから、なんとなくそのままにしていたのですよね。

 

 

理由は、

⚫︎分解清掃しても、電池のもちが徐々に短くなっていた。
⚫︎「丁寧にメンテナンスしながら使うといい時計は3万円くらいからかなあ〜」と、

時計屋さんからのレクチャーを受け、なんとなく気持ちが「しょぼん」となっていた。

 

 

そんなところでしょうか。
けれど。気に入って買ったものなので、
そしていろんな時間を共にしてきたものなので、

自分が気持ちいいのが一番、と。
時計屋さんに走って行ったわけなのでした。

 

 

 

時計屋さんで、早速にわたしの感動、
(知人の腕時計の話です^^)
それからあれこれ…

 

「この時計、今の仕事を始めた時に買ったもので、
思い入れがあるので大切に使おうかなあと思って」

 

などと勝手に決意表明までしていたところ、
時計屋さんがニコニコと満面の笑みで、

 

 

「いいですねえ😃✨✨
それに、今日はちょうど『時の記念日』ですしねえ」

 

 

で、ますますテンションが上がってしまったのでした。

 

時の記念日?
時の記念日に、止まっていた時間が動き出すなんて…
なんていいタイミングなの⁉︎
なんて素敵なの!

 

 

と、言葉にするとそんな感じでしょうか。
時計屋さんが「なぜ今日が記念日か?」まで教えてくださり。
(語呂合わせではないのですよ。
天智天皇の水時計まで遡る、立派な記念日なのです)

 

で、最後に
「時の記念日来店記念」で
可愛いものまで頂いてしまいました。
(しじみ貝の根付け。いい柄、いい色合いだと思いませんか^^)

 

 

 

つまり今日、何を言いたいかと言いますと、

 

「時計が動きだして、嬉しい」
「なんか、来てる気がする(いい感じのタイミングが!)」

 

以上喜びの報告、2点なのですが、
何より大きいのは、

 

 

「これでスッキリ」

 

 

ということかなあと。

 

 

心の中に、微かに、微かに。
日頃忘れていても。思い出しもしないくらいに微かなことであっても、

それでも、「小さな気掛かり」はわたしたちの中に音もなく積み重なり、

 

わたしたちのエネルギーを奪う。
微かなる「エネルギー漏れ」は続いていく。

なので、「穴は塞ぐ」。
徹底してふさぐ、ことが大事。
小さな穴ほどふさぐ。即、ふさぐ。さっさとふさぐ。丁寧にふさぐ。

 

 

 

つまり「未完了は完了させる」。

 

コーチングでは、とても大切な視点&日々の行動の一つになってます。
(の割に、こういう気掛かりを放っておいたりするのですが)

 

 

とにかく、
今日は本当にほんとうに「スッキリ」しました。

 

 

もうすぐ節目の夏至もやってきますし。

夏至までに「小さな未完了」の書き出しと、「集中して『終わらせる』」週間。

皆さんにもおすすめします。

 

 

 

 

人は結局自分の物語を表現するしかない。(それが一番強く周囲に響き渡り、人の心に届いていく)

 

 

 

最近、

①宮崎駿は自分のために(自分を解き放つために)アニメを作っている。
②久石譲いはく「ドメスティックでいいから真剣に掘り下げたものが、かえってインターナショナル」

ということに少し感動してですね。

 

 

 

まず①について。

 

その番組では「君たちはどう生きるか」の制作を通して、
2018年に死去した「パクさん(高畑勲)」への
宮崎駿の断ち難い、憧憬、愛情、おそれ、呪縛、…等々、

 

一言では言葉にすることのできない、山ほどの想いへの対峙と、
それをなんとか超えようとしているプロセスが描かれていました。
(作品内に「これはパクさん」と、
位置付けているキャラが出てくるのですよね◁わたしは見ていないけど)

 

 

 

 

 

それを見て、

 

「ああ、この人は、何より誰より、まず自分を癒すために、
アニメを作っているんだな。
自分の心的旅路を作品にしているんだな。
作ることを通して、昇華し、癒されようと(もしくは次へ行こうと)しているんだな」

 

と思ったのでした。

 

 

 

 

そして、それでいい(ものすごく、いい)と。

 

 

 

世の中のすべての創作活動というものは、
畢竟そういうもの…
というか、その要素がないものは、
他者の心に響くものにはなり得ないのでは?と。

 

 

一人が旅をする。
周囲は、その「旅」を共にし、追体験することを通して、
そこから自分自身にとって必要なものを獲、
感じ取って癒され、成長する。

そこに必要なのは、ただ、掛け値なしの
「クリエイター」自身の本気の旅、自分自身の旅のプロセスなのだ、と。
それだけが、真の響きを放ち、
周囲を巻き込める可能性を持つのでは、と。

 

 

 

そして②。

久石譲いはく「ドメスティックでいいから真剣に掘り下げたものが、かえってインターナショナル」

 

 

ドメスティック(domestic)は
「家族的な」とか「自国の、国内の」意。
(わたしはドメスティックとバイレンスをくっつけて、妙な覚え方をしていました!)

 

 

番組では、久石譲が、世界各国の有名なオーケストラで指揮をし、
シンフォニーや、そしてもちろん、宮崎アニメの曲が、
大喝采を浴び、受け取られている様子が映し出されていました。

 

 

どこか懐かしい、わたしたち日本人にとって
心揺さぶられるような数々の楽曲が、
こんなふうにたくさんの国の人たちに
熱狂的に受け入れられているなんて。
(正直、涙が出るくらい胸がキュッとしてしまった)

 

ニューイヤーコンサートで毎年見る、
ウィーン楽友協会の絢爛たるホールで鳴り響く
「となりのトトロ」を聴きながら、
とても誇らしく思うと同時に、少し「うるっと」き。
(そして、なんだかちょっとクスッと笑える感じ)

 

 

先の言葉。
これは、久石譲の「宮崎駿のつくる世界」についての言葉なのだけど、
久石譲の曲自体が、まさに、自分の中に湧き上がる
「ドメスティック」
な部分を、追及して今に至っているのだろうなあと。

広く、でもない。
万人に受け入れられるか、でもない。
世界はどんなのが好みなんだろう?
どんなものが受け入れられるんだろう、でもない。
自分の中に湧き上がる、ただ一つの響き。

 

繰り返し、繰り返し、自分に力を与えづつける、決して枯れない泉。
魂に刻まれたもの。細胞の記憶。

 

そこを探究し、追及し、
それが今、世界の、多くの人の心を震わせている。

 

 

 

さて。
というこの2つの話を、
少し前、クライアントさんとしたところだったのです。
「何を他者に伝えるか?」
について。

 

(ですので、自分の中から真に湧いてくる、断ち難い思い、
最も興味あること、最も伝えたいことを伝えればいいのでは!と
お伝えしてみたところでした)

 

 

今この瞬間、
「何を伝えるか?」
「自分とは何か?」
「これから自分は何を表現するのか?」

 

で迷っている人がいたら、
よろしければこの話、何かの糧にしてください。

 

 

 

(絵は、想像だけで描いてみたトトロ。似ているけど何かが違う…。
こういうのを「これじゃない感」というんでしょうか)

 

「自身が発した言葉をどう受け取るかは相手の責任。 わたしたちは相手の責任まで負うことはできない」が第一位でした。 (「研修で一番心に残ったことは?」の質問に対して)

 

 

 

 

 

参加者24人中、7割が「一番心に残ったとしてあげたのがタイトルにあげた言葉。
「これが来たか〜!」と内心驚きました。予想外。

 

 

 

 

これをぜひ伝えたい、と思ったのは、
研修前に書いてもらった「うまくいかなかった部下との会話事例」のアンケートで、

 

 

⚫︎表現が回りくどい
⚫︎相手に気を遣いすぎて、結局一番言いたいことまで達していない

 

 

例がとても多かったからなのです。
(名付けて「外堀戦法」。
まあ、時間がかかっても本丸まで到達できればいいんですが、
外堀だけ埋めて力尽きている事例、多数😊)

 

 

 

 

「相手が傷つかないように気をつけて話しました」
「(お客様からのクレームを)そのまま伝えては相手が傷つくので、表現を柔らかくして伝えました」

 

 

 

と。
とても順当な、人として当たり前の感覚に思えます。
けれどこの中に、わたしたちの中に長いこと居座っている思考と感情のパターンが厳然として存在する。

 

「相手のことを考えなさい」
「周囲に合わせなさい」
「人を傷つけてはいけません」
「もっと思いやりを持ちなさい」
「人から嫌われないようにしなくては」

 

確かに。
これを否定するものでは全くありません。
けれど同時に、これらは時にはわたしたちを過度に縛り、自由な表現を妨げるものにもなっている。

 

 

 

 

さて。
「相手の気持ち」なんてものは、
いくら想像しても本当にはわからない、ということを承知しておくといいのです。

 

 

そんなものは魔法使いでない限り、本当のところはわかりはしない。
「傷つく」と思っているのはあなたであって、相手がそうなのか、本当にはわかりはしない。
相手がどう受け取るかなんて、コントロールできはしないのだから。

 

 

 

(実は、ここをコントロールしたい、という人は結構いて、
「相手にこのように思ってもらうために、行動してもらうために
『どう言ったら』いいでしょう?」という質問、よく聞きます)

 

 

 

 

自分の中から「本当の」思いと言葉を解き放ち、相手に届け、そして勇気を出して、委ねる。

 

そんなコミュニケーションは、すっきりとしていて、軽やかだな、と思います。
風が吹いて新緑が揺れるようであったり。
太陽に照らされた土みたいにほっこりと温かったり。
派手じゃないけれど、遠赤外線で、ゆっくりと効いてくる炭火みたいだったりする。

 

 

 

 

つまり、その人の個性、人間性がしっかりと伝わってくるものになっている。
「言い方」(言葉)もとても大切ではあるが、
その人の「真の意図」(あり方。being)こそが、
相手に振動となって伝わるのだ、ということがよくわかる。

 

 

 

 

 

わたしたちは、相手に幸せになってほしいと思えば思うほど。
相手といい関係を作りたいと思えば思うほど。
コントロールしたい、という欲求が生まれることもあるものです。

 

 

 

けれど、そこにしっかりと「境界線」を引く。
相手と自分は違う人間なのだと理解し、
尊重し、信じ、委ねる。

 

 

 

そんな「健全な境界線」こそが、
「新緑の風が吹くような」自由自在な関係性と互いの成長を
もたらすものなのだと思います。

 

 

(写真は島津家別邸、仙巌園の白梅。
見ると近所の白梅も満開になっており、「はじまったー^^!」という感じがしています)

 

転んだとき「我慢すると褒められる」男の子。 人が転んだ時に「他者の体の痛みにまで気を遣い同情すると褒められる」女の子。 この違いが「感情への感性」の違いを生む

 

 

 

 

 

 

「転んだとき『我慢すると褒められる』男の子。
人が転んだ時に『他者の体の痛みにまで気を遣い同情すると褒められる』女の子。

この違いが『感情への感性』の違いを生む」

 

 

 

というのは、岡田斗司夫氏が言っていたことで。
「男の子は、自分の体の様子や体調不良を我慢すればするほど褒められる。

なので、身体についても感情についても鈍くなるんだ」と。

 

ああ、なるほど。
結局そういうところから始まっているかもなと。

 

 

 

今はそういう親ごさんは少ないでしょうが、
わたしは小さい頃、泣くとよく怒られました。

結果わたし自身、「泣かない子」(我慢する子)に育ち、
なのでなんだかよくわかるのです。

 

 

 

 

 

例えば小さい頃の予防接種。
だいぶ痛かった覚えがあるんですが、
いつも全身&心を石みたいにして我慢していた。

 

 

 

そして、顔を真っ赤にして泣きわめく
周りの「園児たち」(←自分も園児)
の顔を見ながら、
「見苦しいな…」と。

(可愛くない子)

 

明らかに泣かないのが立派なのだ、と思っていました。

 

 

 

 

 

「自分は感情を感じるのがあまり得意じゃない」

 

 

と思ったのは仕事を始めてからのことで。
なので、教員生活の始めの頃は今思えばなかなかに大変でした。
(自分の感情を感じないように、
分厚い皮をかぶっているようなものなので、
子どもの「身体感覚」「感情」と本当の意味で触れ合うのに時間がかかり)

 

 

悲しいこと、びっくりしたこと、怖いことがあった時に。
怒りを感じた時に。
その自然な感情の発露を、

 

 

「それはいけないことなのだ」

 

 

と言われると、
(言葉で言われなくともそういう身体メッセージを発せられると)
確かに「それ」を感じるセンサーの感度は弱くなりますね。
自分の中で「それを感じる」ことへ許可がおりない。

 

 

 

 

けれど、我慢した感情自体はなくならなず、
ずっと自分の中に残り、着々と蓄積され続けるので、
結局「後で」味わうことになるのですけれどね。
(手をかえ品を変え形を変え、
絶対に「気づく」ような出来事が起き、味わうようになっている)

 

ずっと「放っておいた自分」「ないことにされていた自分」
は怒っていて、悔しくて、悲しくて、
寂しくてしようがないわけですから、
全力で「メッセージ」を送り続けるわけです。
気づいてもらうまで。

 

 

 

 

 

そう思うと、
「味わうべき感情」「湧いてきた感情」は
その場ですぐに、存分に味わってしまうのがいいな、
と本当に思います。
白黒つけず、いい悪いもなく、ジャッジすることなく、
ただ、しっかりと味わうのがいい。
(「味わう」と「表現する」は別物なので念のため)

 

 

 

 

 

 

 

家族との関係。
職場での人間関係。
仕事。
対ひと、ひと以外に関わらず
の大切なものとの関係、全てにおいて

 

 

 

 

あれ?と思ったら。
うまくいかないと感じたら。

 

 

その時こそ「今だ!」というメッセージなのだと思います。
「見て!」
「聞いて!」
「気づいて!」
「ここにいるから!」
という、「どこかに置いてきた自分」からのメッセージ。

 

 

 

 

答えは外側にはなく、
全部自分の内側にある。

 

 

「その自分」との語らい、承認、和解。そして愛を注ぐ。
それもまた、

 

前回書いた「自分の中心に戻る」「碁盤の目の中心に戻る」
(=それこそが世界への、あなたの貢献)

 

ということなのかと思います。

 

 

 

 

 

 

追伸:

「他者の体の痛みにまで気を遣い同情すると褒められる」女の子、

がOK、と言っているわけではなく。

それはそれで行きすぎると色々と弊害が。

バランスですね。

 

 

 

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