
今朝、何かの記事を見て、俗にいう「毒親」の定義はなんだろう?とふと思ったのだけど。
わたしの思う「毒親」とは、
「自分の不安や心配や願望、コンプレックスなどの『心的状態』を
子どもの問題にすり替える親。
そして、そのことに気づかない(気づこうとしない、見ようとしない)親」
でしょうか。
(なので、「親」だけでなくいわゆる「毒教師」「毒上司」「毒配偶者」などというものも
存在するだろうな、と思うわけです)
ちなみに、
「とても満ち足りた、100%幸福な親」に育てられた人は
そんなにいないと思うので、
(敗戦、そしてその後の混乱で、
わたしたちの数代前の先祖の多くは皆、ずっと守り培ってきた価値観の「崩壊」それに
「挫折」が深く刻まれることとなったろうから)
そこからつながるわたしたちは大なり小なり、
「漠とした不安・これがないと幸せじゃない!という思い(願い)
よくわからない自己否定・コンプレックス」
などを持ち合わせているのじゃないか、と思います。
なので誰でもそういう「状態」(毒親・毒大人状態)になりうるし、
なっているときも実は大いにある、
というのが「案外普通のこと」なんじゃないか、と思うわけです。
だから、これがあることが悪いのではない。
(逆に、「全くない」と豪語する人の方が怪しいと思ったりする)
大切なのは、
「自分でそれを認めることができるかどうか。
受け入れることができるかどうか。
これは自分のものだ、自分で癒すぞ、と決めて、
そことしっかり向き合うことができるかどうか」
なのだと思います。
何はともあれ、
自分の幸せは自分の中にしかなく。
何かの条件によるものでもなく、
ましてや人に託すものでもない、
ということはしみじみと思うのです。
そして、全ての大人が、
「楽しく、ワクワクと、静かに満ちて、しみじみと…」
(いろんな言葉がつくけれど😀)
とにかくそういう感じに「自分の」人生を生きていることが。
自分の「中心軸」で生きていることが、
(親は親の「自分が生まれてきた目的」をちゃんと生きていることが)
子どもの幸せにとって、必要不可欠なことなんだ、
と、そう感じます。
今日はなぜこんなことを書いているかというと、
確たる理由は全く思い浮かばないのだけど。
今が、分岐点、な氣がするから、でしょうか。
わたしたちは今、分岐点に立っている。
(という言葉が勝手に浮かんできている)
NLPに、
「親のタイムライン(生きた軌跡)までを遡り、癒し、統合するワーク」
というものがあるんですが。
親のたどってきた人生、思いを癒し、
先祖のたどってきた人生や思いをも癒し、
それら全てを美しく力強い「糧(かて)」に変え、
自分のこれからの未来のタイムラインを生きるための
プラスのエネルギーとする。
そういうワーク。
それは「全て」は、
誇らしく輝かしい「リソース」へと姿を変え、
わたしたちの人生を通して、
次の世代へと手渡されていくことになるのだろう、と思います。
そして、それが今、(わたしたちが)できるかどうか?が
案外これからの日本を大きく左右するのではないだろうか、
(その、最後のポイントに今、わたし達は立っている)
と、そんな氣がしています。
こういうのは理屈ではないので、うまく言えませんが。
ちなみに自分はどうなの?という話なんですが。
昔、20代後半だったか30代前半だったか忘れましたが、
「『負の文化的遺伝子』を次には手渡さない」
と、なぜか思ったことだけははっきりと思い出します。
(ちなみに、うちの親が「毒親」だったと言うわけではなく。
日々悩みつつ、生活しつつ、子どもを愛し、
時にはそれが十分にできない自分にまた悩むというごくごく普通の親でした)
で、
わたし自身、それが今うまくできているかと問われると、
毎瞬毎瞬「プルプル」しています(笑)
(繊細に揺れて、ズレては戻りズレては戻り…ということです)
なんですけれど、
周りに色々な「ズレを元に戻してくれる」たくさんの人や
ものがちゃんと存在してですね
それが本当にありがたいと思っています。
一人ではなかなか難しい。
なので、世の皆さんたちも、無理はしないでくださいね、
というのは大いに言いたいところです。