
「赤毛のアン」がとても好き、というわけではないのですが。
子どもの頃、数回は読み、自分なりのイメージや好きな場面もあって。
(アンの親友、ダイアナがアンに間違って飲まされる「いちご水」(実はお酒)が美味しそうだなー、とか)
そして、やはり世界に冠たる「高畑勲監督」の名作中の名作アニメ
「赤毛のアン」が浮かんでくるんですが。
この春始まった新作アニメ「アン・シャーリー」。
プリンスエドワード島の風景が美しく描かれ。
アンも生き生きと可愛くて。
今のアニメ技術で存分に描かれるアンの世界に、
「きれいだなー😍やっぱり絵が綺麗なのは正義だわー」
と見ていたのだけど、
話が進むに従って、少しの違和感が。
言葉にするなら、
「このアン、わたし…ちょっと一緒に暮らしたくないかも」。
カスバート家入り口。
アンを連れ帰ったマシュウに、マリラが
「男の子はどこ?」と言い、「この子しかいなかった」と返すマシュウ。
「なんですって⁉︎」とマリラ。
次の瞬間。
「誰もわたしを欲しくないんだ!」と叫ぶアン。(戸口で)
そして、大泣きしながら案内もされない
(人んちの)部屋の中にズカズカと歩み入って、
(人んちの)居間のテーブルにわっと泣き伏して
繰り言を延々と述べながら泣き続けるアン。
コミカルな演出で、
(コーデリアと呼んで。せめて「e」のついた「アン」と呼んで。
の有名なセリフもここで出てくる)
可愛いよ。
可愛いんですが…。
けど。
なんだかちょっといやだ、この子(笑)
というか、怖い。
アンよ、礼儀はどこへ行った?君の高潔なる矜持はどこへ行った?
その後、SNSにて。
◉「アンは背筋を伸ばし座る。アンは礼儀正しい。
『クイーン・アン』と後にギルバートが言う芯の強さがアンにはあり、
アンは可愛いお転婆娘ではない」
アンが駅で待ってるシーンだけどこの差。アンは背筋を伸ばしすわる。アンは礼儀正しい。「クィーン・アン」と後にギルバードがいう真の強さがアンにはあり、アンは可愛いお転婆少女ではない pic.twitter.com/ihyuNwkiTE
— お絵描き二年生 (@oekaki1nensei_) April 4, 2025
他にも。
◉「ヴィクトリア朝時代の少女が膝を抱えて座っていることはありえない」
◉「原作アンのカバンは布の古い鞄。こんな高級な革製のトランクを孤児は持てない」
◉「そもそもアンはピンクを着ない。
(原作に「赤い髪をした者はたとえ想像でもピンクのものは着られないのよ」のセリフがあるとか)
なのに、ポスターでは堂々とピンクを着ている」
◉「ダイアナの黒い瞳と黒い髪にアンは憧れる。なのにアニメのダイアナの目は青」
などなど。
みなさん、すごいです…。
赤毛のアンの世界観を大切にし、
アンをずっと愛し続けてきた人たちの氣持ちがそこには渦となって溢れていました。
◉「赤毛のアンのアンは
前向きで元気で夢見がちな魅力的な女の子ではなく、
生き抜くために想像力を使った、
愛に飢えたサバイバーなんですよ。
そしてアンを支えるのはその気位の高さ。
誰が相手でもそれを崩さない。
アンは単なる一時的な怒りでギルバードを叩いたわけでもない。
アニメ萌え表現に消費される」
(先の、リンクを貼った方の言葉)
なるほど…。
高畑アニメで感じた、
「繊細な、触れれば壊れてしまいそうな、
けれどもその奥に存在する真っ直ぐなクリスタルの硬質」
を持ったアンの姿を思い出したのでした。
さて。
「原作をどこまで尊重するか?」
「今の時代(の子どもたち)に受け入れられる」ための改変。
わたし自身の「好み」なんですが、
原作(設定・キャラ・世界観)を使って、
「自分の言いたいこと、自分の表現したいこと」を脚本家や監督がぶっ込んでくるような作品作りは
好きではありません。
そして、
「今の時代のテンポ、感覚」に合うように変えることは
あってよしですが、
(時代劇だって厳密に作れば「お歯黒女性」だらけになってしまうわけですし)
キャラクターの性格や物語の設定における、
「作者が最も表現したかった」根幹に関わる部分の改変は、なし、
ではないか、と思っています。
ちなみに、
SNSで印象に残ったもう一つの言葉があって。
「今はもう、原作を読み込める制作者がいない」
「凜とした少女、を描ける人はもういない」
といったもので。
恐ろしいことですが、そういうこともあるのだろうかと思ったり。
さて、さらなる願い、なのですが。
子どもには。
いえ、子どもに届けるものだからこそなおさら、
「わからないだろうから変えてあげよう、
薄めてあげよう、
こっちの方が見栄えがいいだろう」
といった大人側の安易な、勝手な
(戦後の薄い、毒された「テレビ文化」の中で育った貧困な想像力から生まれた)
「改変」ではなく、
ガッツリと「作者が描いたキャラクター」そのままに
「作者が描いた世界観」
「真に伝えたかったこと」を、
子どもたちに手渡してほしい、と思っています。
ゆるいお粥のような作品ではなく、
噛みごたえのある強飯(こわめし)を与えて欲しい、と思います。
子どもはそこまでバカでも、愚かでもないのだから。
そこへの思いや努力がないのなら、
「原作もの」に手を出してはいけない、というのは言い過ぎでしょうか。
(上記SNSの方の言葉のように「萌えアニメとして消費」するために
原作の世界観を使ってほしくはないなと)
何より、原作者が、
「ああ!映像化してくれてありがとう!アニメ化してくれてありがとう!」
と喜ぶ作品になるのが一番だと思います。
この「アン・シャーリー」を、
作者のモンゴメリが見たらなんと言うかはもちろんわからないんですけれど。
(案外面白がったりしてですね。
そして、この「アン・シャーリー」。
十分に面白くて「いいアニメ」なことは確かだと思っているのです)
(上の新旧比較写真は、先のリンクを貼った方のSNSよりお借りしました)