
前売り券をいただいたので映画館に行ってきました。
「親鸞ー人生の目的ー」
(アニメです。出ている声優さんが結構豪華でですね◁大事なところ)
感想なのですが。
自分を認めよ、そのままの自分を愛せよ、
まず自分が今のままの自分で幸せになれ、
それなくして周りの幸せは、ない。
という映画かなあと。
煩悩はなくらなない。
私たちが煩悩と呼んでいるものは
人の自然な「生」の発露と表裏一体。
美味しいものを食べたい→生きる欲求
異性に惹かれる→種の保存の欲求
もっとお金が欲しい→安心や自由への欲求
それを「よくないもの」として
消そうとすること自体無理がある。
人の素直な「生のエネルギー」に反する。
それを認め、愛し、抱きしめるからこそ、
それの肥大、暴走から、自由になることができる。
前半、
若き親鸞が山にこもって修行をする20年間が
(自分は煩悩まみれだー!死んだらどこへいくんだー!と)
もう見ていてキツくて(笑)
「早くやめなよ、そんな無駄なこと」
と思いながら見ていました。
逆に、山なんかにこもってるからわからないんじゃないの?
膨らんじゃうんじゃないの?
365日、そればっかり考えているわけで、
そりゃあ、大木にガンガン頭打ちつけたくもなるよ、と。
市井に降りて、
目の前のことせっせとやって「生活」しなよ、
真の悟りはそこからしか生まれないわよ。
なんて思いつつ。
(今、世界中の親鸞ファンを敵に回しているかもです💧)
で、思い出したのですが。
悟りたい(解脱したい、だったかな?)僧が
生きながら墓に入るんだったか、
密閉した船で海に出るんだったかをやる話。
「何がなんでも、死んでも解脱してやる(変な言い方ですが)」
という…
逆に凄まじい「執着」ともいえると、
はっとしたことがあったんですが。
さて。
親鸞が生きた時代からすると、わたしたちは少し
「進歩」しているのかな?とも思えます。
人の意識の進化、といったほうがいいでしょうか。
親鸞の時代は、
「阿弥陀仏」「念仏」という「形」を使って、
「そのままの自分を阿弥陀仏は抱き止めてくれる」
「だからそのままの自分を愛せよ」
「そのままのあなたで救われる」
という「教え」で人を導き救おうとしたわけですが、
今、わたしたちはそれを普通に「知って」いる。
自分の中のたくさんの「自分」を赦し、愛し、
手を携えて生きていくことを知っている。
そこにこそ幸せがあることを知っている。
(サクッとできるかは置いておき)
ここまで書いて、
人の意識の広がりも進化も、親鸞はじめ、多くの人たちの「修行」
(人間の探究・心の探究・信仰の探究ときづき)
の先にあるものなんだよなと。
そう考えると「現代人の上から目線」の
「やめなよ、そんな無駄なこと」
ではなく、
「ありがとう。あなたたちの『旅』の先に、今の私たちがいる」
ということかなあと今、思いました。
ちなみに、親鸞の声が櫻井孝宏さんで、その奥様の「玉日姫」の声が花澤香菜さん。
「でた!水柱と恋柱…」
と思いながら見ていたことでした。
マイナーアニメながら、声優さんが豪華でした。本当に。
(櫻井孝宏の声で「なむあみだぶつ」が聞けるレアな感覚&至福感)