
昔、ゴダイゴが大好きな子がいて、その子が歌の英語部分を得意げに発音しながら
「英語は一つの音に一つの『単語』が入るけど、
日本語は一つの音に一つの『字(仮名)』しか入らない。
だから日本語の歌はダメなのよ。
(内容が薄い。従って劣っている)」
といった意味の発言をしたことを
よく覚えているのだけど。
それから年月はたち、
「一つの音に、真っ直ぐのびやかな一つの音がスッキリと入る」
我が母語がますます好きになっています。
どの音を伸ばしても、その先に真っ直ぐな母音が広がる日本語。
口にしていて本当に気持ちよい。身体が心地よい。
その、世界にたった一つしかない、
(正確には、日本語と、それからポリネシアの一部の島のみにしかない)
「母音を中心とした言語(母音を主体に音声認識をする言語)」
である日本語の歌が、ボカロ文化を通じて
今、世界の若者たちを魅了している、という番組を見ました。
訳されたものを歌っているのではなく。
英語やフランス語、その他…
圧倒的多数を占める
(そして、世界をいい意味でも逆の意味でも牽引してきた)
「子音言語」
の国の若者たちが、日本語のままで歌い、熱狂し、涙し、大合唱を繰り広げている。
それを見ながら、
「ああ、これから世界は平和になるなあ…」
と。
英語を話す時と日本語を話す時では性格が変わる、
というのはよく聞くけれど。
子音言語は、
「ディスカッション」「ディベート」が必要だった人たちの間で
発達した言語なのだ、と読んだことがあり。
「シュッ」「ツッ」と口をすぼめ、
鋭く息を吐き出す複雑な破裂音が圧倒的に多い。
自然は「征服」する対象。
自分を主張し、他者を威嚇し、境界線を引き、
自分の生存を確保する必要があった。
いわば戦いの言語、なのだ、と。
そして、生きることが過酷な地域ほど
「複雑な鋭い子音の発音」を持つ言語として発達している、と。
(例として、砂漠の民の言語、アラビア語が挙げてあり)
かたや、縄文時代数万年にわたり
「戦いのなかった平和な時代」を謳歌したゆえか、
日本語はその「音」からして、単純でおおらか。
「アー」
「オー」
「ウー」
日本語を(母音を)口にするとき、
身体は開き、リラックスして解放される。
自然の音を写し取り、自然と融和する言語。
それが日本語なのだと。
「古代日本は、農耕をせずとも…自然に生える草や実と、
浜にいる魚貝を採取していれば十分に間に合ったのだ」
「自然に恵まれ、誰かを威嚇したり殺したりする必要もなく
…私たちの祖先は、ことばを生み出したとき、
威嚇の必要性を感じなかったのである」
今、日本語の歌を熱唱する若者たちが世界中にいる。
日本語を発することで得られる、
「ゆるむ」「おおらかな」心地よい身体感覚をその身体に響かせ、
日本語の「余白」「あわい」の世界観を受け取り、
「これは自分たちのことを言い表している」
「これはわたしのことを歌っている」
と、そこに「居場所」を見つけている若者たちがいる。
虫の音や雨の音…
子音言語の脳には「ノイズ(騒音)」としか聞こえない自然の音に
「メッセージ」を見出す稀有な言語を、世界の若者たちが合唱している。
それはつまり、世界でただ一つ、
「地球の声を聞ける言語」
が、日本語であり、
それを世界の若者たちが合唱している、
ということではないか?と思うのだ。
そんな彼らが大人になり、これからの世界を作る。
彼らの中には、彼らの最も繊細な時期をしっかりと支えた
日本語の歌、日本の文化がきっと生きている。
(子どもの頃に培った感覚は消えることはないのだから)
これで平和にならないわけがない、と思うのです。
(参考、引用ともに「日本語はなぜ美しいのか」黒川伊保子 より)