朝のリレー
谷川俊太郎
カムチャツカの若者が
きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は
朝もやの中でバスを待っている
ニューヨークの少女が
ほほえみながら寝がえりをうつとき
ローマの少年は
柱頭を染める朝陽にウインクする
この地球では
いつもどこかで朝がはじまっている
ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交替で地球を守る
眠る前のひととき耳をすますと
どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる
それはあなたの送った朝を
誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ
* * *
今でも、夜明け前に起き出して、
どこか遠くへ移動するとき、
ちょうど空が白んできた頃、つい口ずさんでしまうんですよね。
「カムチャツカの若者が…」
この詩の言葉が身体の中に呼び起こす
すがすがしさ、
静かな躍動感、
何かが始まる前のワクワクする感じ、
壮大な感覚
…
そんなものが、
わたし自身の身体にもしっかりと刻まれてしまったんだなあ、
と。
この詩に出会ったとき、
もはや「いい大人」だったわたしでさえそんななのだから、
みずみずしい13歳の頃に出会った子たちの身体には、
もっともっと、深く刻まれていたらいいなあ、と思うんですが、
それは「授業をした人」(つまりわたし)
の力量に大きく関わっているんじゃあ??
と思うと、ほんっとに責任を感じる😅
と今更ながらに思うことなのです。
谷川俊太郎「朝のリレー」。
入学後のとても早い時期(春か、遅くても初夏)の題材として、
載っていたように思います。
「出発」「新しいスタート」を迎えた子どもたちに触れてもらうに、
なんとも相応しいなあと。
美しい言葉に触れること。
美しい世界に触れること。
そこと、いつでもすぐにアクセスできる回路をつくること。
そこは、心の故郷であり、
いつでも自分を助け、温め、癒し、鼓舞してくれる、
大きな大きなものの「みなもと」。
詩の授業なんてのは、
結局「そういうもの」をたくさん作るために
やるんじゃあないの?
そこから始まる長い人生、
どんな場面でも、
「帰れる」「繋がれる」心のエネルギー源をたくさん作るために。
と今なら思います。
今ならわかります。
* * *
《追伸》
この「朝のリレー」のドリル(市販の小テスト)を見ていたら、
【そうしていわば交替で地球を守る】
ここの意味として正しいものを選べ。(4択)
の選択肢の中の三番目の選択肢が
「地球防衛軍に入って防衛に力を尽くす」
という感じの選択肢だったのが、とても(笑えて)気に入ったことを思い出します。