ずいぶんと久しぶりの投稿になってしまいました。
暑い暑いと言っているうちに、はや中秋の名月です。
さて、今日の文章。
わたしの周りの幾人かも、
「思ったー!」
との声があったので、アップしてみます。
* * *
大河ドラマで式部がいよいよ「源氏物語」を書き始めたので、なんとはなしに読み始めてみた、
と言いたいところだけど、朗読を聴き始めのです。(桐壺から順番に)
与謝野晶子訳のを聞いているのだけど、
わたしにとって与謝野晶子も十分に「昔の人」の範疇ですし、
古典の文章の特徴か、一文が長くて冗長なところもあって、
聴いていて、
「あれ?今の誰のこと??」
ということも多々ありなのですけど、
とりあえず「夕顔」の終わりあたりまでやってきました。
で、
ここまで聴いて感じていることは、
「源氏、ひどーい😆‼️」
今の所、出てきている女性は
⚫︎「藤壺」(帝の妻で源氏の義母/道ならぬ恋に燃える源氏)
⚫︎「空蝉」(他人の奥さん/道ならぬ…(以下略))
⚫︎「軒端荻」(空蝉の代わりについ『そい伏して』しまったひと。つまり人違い)
⚫︎「夕顔」(乳母の家に見舞いに来て、隣の家で見つけたひと。源氏ぞっこん。けれど生き霊に憑かれて死んでしまう)
の四人なのだけど、
空蝉になんとか会おうと忍んで行って逃げられ、
代わりに別のひとに間違って声をかけてしまい、仕方なく、
「わたしはずっとあなたを思っていたのですよ」
(うわ〜、すごいなあ)
夕顔が死に、
悲しみのあまり病になる源氏。
ありし姿をしみじみ偲んでいる頃、
空蝉から手紙が来て思う。
「この人を思う熱情も決して冷めていたのではないのである」
(おいおい、君は何を言っているのだ??)
空蝉との逢瀬を作るため、
空蝉の弟、小君(こぎみ)をそばに置き、何かと手引きをさせるのだけど、
なかなかうまくいかない。
そうすると、
「お前は役に立たないな」
「いつまでお前を可愛いと思っていられるかわからないな」
(など言い放つ。子ども相手に!)
光源氏17歳。
輝く日御子。若さゆえの我儘か、
傲慢さか、癇癪か。
(若いってすごい)
ちなみに、「末摘花」(鼻の赤い姫ですね)の巻でも、
源氏は相当「ひどい」(笑)。
心の中で言いまくっている。
(醜いなあとか着物のセンスがダサいなあ…的なことを)
けれど、一度「めおとになった」末摘花を見捨てることなく、
「この人の夫となったのは、
この人の亡き父の必死の引き合わせだったのかも」
なんて思いつつ、せっせとお世話を続けるのだけど。
「源氏物語」。
若くて、美しくて、傲慢でわがままで、好奇心の塊。
繊細で感動屋。
心優しく、たおやかで、まめまめしく。
その言葉の尽くし方と言ったら本当に「学べるレベル」。
そして、
全てのもの、全ての女に必ず、
「美(それぞれの良いところ、美しいところ)」
を見つけ、そこを愛おしみ、慈しむ力を持つ光源氏。
今の所、そんな感じでしょうか。
わたしの中に立ち上がっている光源氏像。
これからも、呆れつつ、
「ひどい〜😆」と可笑しくなりつつ、
ため息をつきつつ、
この若者がどう成長していくのかを
ゆっくりのんびり見届けようと思っているところです。
(いずれ因果応報、いろいろと帰ってくるんだぞー!と思いながら)
そして、何より新鮮に感じるのは、
その、源氏の見て、感じている「世界」の細やかさ。
それはつまり、式部が見てとり、氣づいていた世界、ということで、
当時の平安人たちがすべからく
「見てとり、感じ取っていた世界」
ということなのです。
今のわたしたちにはもうもはや、
よくわからなくなっている感覚も多々あるんだろうなあ…
と思いつつ、
自分の身体中の感覚を押し開くように、
浸ってみる「源氏物語」の時間な感じもしています。