思えば
学生の時、いちおう教員になるための勉強をしたわけですが
「どうやって、どのように人前に立つか」という講義はなかったのですよね。
一度も。
「何を教えるか」
の勉強は(いちおう)ありましたが。
「どう伝えるか」はなかった、ということです。
今はどうなんでしょう。
あるのでしょうか。
わたしが教員であった頃
「どのように」生徒の前に立つか、
つまり、学ぶという「場の空気」をどのように創るか、という「言葉では表現しづらい」
しかし、最も大切なことは完全に
「個人芸」「見よう見まね」「なんとなく」
という「経験値」の世界でした。
ですから、「場の空気」を作って
ぐ~っと、はじめの数分で生徒の心をひきつけ、場を温め
生徒のレセプターをぐいっと開き
「学び、吸収する」という生徒の頭と体の状態をつくる、ということが
体感的にできるセンスをもともと持った先生はいいんですが
そうでない先生は
はっきりと「差」が生まれる、という現象が起きていたように感じます。
目の前に40人の子どもがいるのに
1メートル圏内くらいにしか届かない意識の輪の中で黙々としゃべる方ですとか。
無駄に声が大きくて
(話し手の意識自体が荒く拡散していて、細かく配れていないということ)
生徒の頭の上を言葉が一緒くたになって、だーっと滑って行く方とか。
どちらも「一人一人の子ども」の発する、リアルな瞬間瞬間の状態を察知できない、という
残念なセンサー、ということかと。
前々回の記事
「勝負の決め手はプレゼンだった」
にも通じるところなのですが
言っている内容に加えて
特に子どもの場合、場の波動がダイナミックに動いていたほうがより染み込みやすい。
静と動、発散と収束。
それらを効果的に演出するには、その場をつくる者の「開いた体」が必要です。
場の状況を瞬時にとらえるセンサー(五感)
とらえた状況を、生徒の状態に応じて臨機応変に変形させることができる瞬発力が必要。
声の出し方、表情などなど…表現力の練磨はいわずもがな。
魅了する場、をつくるためには必須の項目。
と、いうようなことを
数日前のセッションで、クライアントさんと話していました。
日々20代の若者相手に奮闘なさっている仕事の方なのですが。その方が次のようなことを語ってくださいました。
「最近、テレビで女優の高畑なんとかさんが話していたんですが
保護者参加型の授業参観の時に、自分が『先生、わかりません!』とか
どんどん発言するものだから、息子さんが嫌がっていた、と。
高畑さんいはく、
『先生も、自分と同じ、パフォーマーのはずなのに、授業が面白くない。残念だ』と」
言葉は違ったと思うのですが
上記のような感じの内容でした。
「先生はパフォーマー」
なんとステキな言葉だろう、と思いました。
そう定義した瞬間に、何をしなければならないのか、何をすべきなのか、の認識が
ガラリと変わります。
「自分はパフォーマー」。
そう、先生が意識したら、「教える」という行為はもっともっと
なんというか…平面的でない、すごいものになりそうです。
教職課程に「大道芸パフォーマンス」体験など
入れてもいいんじゃないかな、
絶対鍛えられるのに
とその方と話しながら本気で思ったのでした。
さて
というようなことに関するセミナーをやらないか、という話が出ています。
遥か昔、教員になりたての頃初めて生徒の前に立ったときに、
学校で習ったことがなにも役に立たないことに愕然としたあの日(笑)。
(あくまでも、私の場合ですので念のため)
実習とは違い
自由奔放に、本気で向かってくる固まり。細胞分裂の「バチバチっ」という音まで聞こえてきそうな漲るエネルギーの集団という「うごめく生き物」の前に
自分の無力さを感じたあの日。
しょうもない授業もたくさんしつつ少しづつ、
彼らからもらったたくさんのギフトの上に多くの体験を積み重ね
今、「伝える」ことを専門の仕事としています。
時はたち
今思うのは
今の自分に見えること、感じること、わかることを伝えかえしてみることが彼らへの何よりの恩返しかなあということなのです。