「深知今日事ーふかくこんにちのことをしるー」

「それは美しいか?」

昨日

カフェで斜め後ろに座っている7~8人の高校生を見ながら

ぼんやりと考えていました。

にぎやかですが、それほど声が大きいわけでもないし

どだばたと騒いでいるわけでもない。

「迷惑をかけられているか」と聞かれれば、否。

彼らの存在が気になって…というより

どうも不快で仕方がない。

それはなぜかというと

一言でいうと

「美しくない」から。

紺の制服のブレザーをすっきり着こなし、髪形も素敵に整えた「イケメンな」彼ら。

でも、その居住まい、たたずまい、立ち居振る舞いは、涙が出るほど「イケてない」。

美しくない。

「…こりゃあ、本当に早晩この国は滅ぶぞ」

とつい。

(大げさですね)

わたしが感じた彼らへの不快感は

「自分と仲間」しかいないあり方。

自分を中心に半径1メートルの世界ですべてがすんでいるあり方。

からきているものなのかな、と思います。

配る意識の矢印が自分の周囲50センチで止まっているあの感じ。

まったく訓練されていない「体」。

他者がいる公の空間ではどう体を動かせばいいのか?

体に何も入っていない。

家のソファにいると、たぶん全く同じ様子で座り、しゃべり、テーブルを使う彼ら。

(というか、座ってないし。長くなってるし)

就職対策のセミナーで若い子たちにプレゼンをしてもらうときのことなどをふと思い出します。

フォーマルな場面での体の動きというものは

一朝一夕にできるものでない。

「その時になればちゃんとできます」というのはあり得ないのですよね。

こういう日常をなめてはいけない。

骨の髄までしみついたものが、結局は出るのだから。

…思いは千路に飛び乱れます。

さて。

「美しい」ということはとても大切なことだと感じます。

「美しさ」への教育というものも、もっとなされてもいいのではないかと感じます。

真の美しさとは

「そこにいる自分も他者もともに心地よい状態にするもの」だと思います。

というよりは、そういうものは、自然と美しいものとなる、ということでしょうか。

先日、日本橋の上にのしかかる高速道路という景観を

溜息の出る思いであらためて見上げてかえってきたのでしたが。

(「こんなこと、よくまあやったよね~」「とにかくもう、やるしかなかったんだろうね~」と知人と時代をしのびつつ)

空のカケラも見えない。

美しい橋の頭上を鉄の塊が覆い尽くす、見れば見るほど異様な光景。

「美しさ」を捨て

代わりにわたしたちが選んできたものの結果が、今、わたしたちの周りでさまざまに噴出している気がします。

日本人は、そもそも美を尊び、生活の中の大切な判断基準として

それは美しいか?を置いてきた民族であったのではないでしょうか。

立ち居振る舞い、物のあり方、心の在り方、生き方…すべてにおいて

「それは美しいか?」

(調和しているか?みなにとってOKか?筋が通っているか?)

「美しく」生きたい、と思いました。

何より

ぶれない大人のその背中を子どもたちに見せ続けることが

今大切なのだろうと思います。

中村公子のコーチングna日々♪-DSC_0340.JPG



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